「放蕩息子の話:その3」

 お元気ですか? 明智信作です。放蕩息子は、貧乏のどん底に落ちたとき、本 心に立ち帰りました。

 父を思いだし、父の愛を悟って、父の元に帰ろうと決心しました。息子は決心 します。「父のところには食物のありあまって雇い人が大勢いるのに、わたしは ここで飢えて死のうとしている。立って、父の所へ帰って、こう言おう、父よ、 わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪をおかしました。もう、あなた のむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてくだ さい」

 彼は、直ちに行動に移ります。聖書には、

「まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首をだ いて接吻した」

とあります。何年も経過していたのに、父がまだ遠く離れていた息子を認めるこ とが出来たのは、父が毎日、毎日息子のことを考え、帰りを待って、出て行った 方角をながめ続けていたからであります。父は、息子が家を出て以来、毎日毎日 息子のことを案じ、祈り続けていました。とにかく無事であってほしい、もう一 度心を入れ換えて帰ってきてほしい、とどんなに願い続け、祈り求め続けた事で しょうか。

 ですから、父が遠くに息子の姿を認めた時、どんなにか父の心は喜びにはずん だことでしょう。長い間、待ち続けた息子が帰ってきたのですから。父は、決し て、自業自得、それみたことか、といって冷たくつき放すことをしませんでした。 あわれに思って走り寄っています。息子のみすぼらしい姿を見たとき、父はいっ そう深いあわれみが心からわいて出たのでしょう。

 あわれに思って走り寄る父。ありがたいことです。わたしたちの神はこのよう にあわれみ深い父なのです。父は、むすこのことを責めていませんでした。すで にゆるしていたのです。責められて当然のことをしていたのですが、父の心には、 ただ無事でいて欲しい、早く気付いて帰ってきて欲しい、と祈りながら、待ち続 けていたのです。私たちを造り、生かして下さる神も、私たちに対して限りなく、 あわれみ深い神なのです。

(by 明智信作)