「放蕩息子の話:その4」

 お元気ですか? 明智信作です。放蕩息子が、帰ってきたとき、

「まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りよ」

った、と聖書に記されています。息子は遠くからとぼとぼと歩いて近づいてきま す。

 しかし、父は、あまりの喜びに、走って迎えるのです。キリストの時代に、一 家の家長が、人前で「走った」ことはみっともないことでした。中東では立派な 人物は、ゆっくり、堂々と威厳をもって歩くのであり、決して走らないのです。 キリストの語った父親は走っています。

 生きている内に、父親から財産を請求して、「あんたは死ねばいい」というよ うな言語道断な態度をとった息子を、今、恥も外聞もなく、むしろ、あわれに思 って走り寄る父、これが、キリストの描いた神の姿です。

 私たちの父なる神は、このように愛とあわれみに富む神であります。神に生か されていながら、神を認めず、神から離れて、自分勝手に生きていた私たちが、 神の愛を悟り、神に立ち帰る日を今か、今かと待っていて下さる、そして、私た ちの心の中で、神に心を向け始めた一瞬を見逃すことなく、ただちに走り寄る神、 これが、わたしたちの神です。

 私たちは、この神の圧倒的な愛と恵みをいただいて、今日生かされているので す。この神の愛は、一方的に、すべての人に向かって注がれています。例外はあ りません。

 神に生かされながら、神を認めず、神を無視していた私たちは、例外なく「あ んたは死ねばいい」と言って、父から離れて遠くへ行った、あの放蕩息子と同じ 罪をおかしてきたのです。私たちの内に、この愛を受けるに価する人は一人もい ません。

 しかし、神は、そんなわたしたちを深くあわれみ、決して責めることなく、心 からゆるし、走り寄って迎え、神の子として受け入れて下さったのです。指輪も、 晴れ着も、履き物も全部、父が用意して、息子に与えました。

私たちが神の子と呼ばれるために、神ご自身が、あの十字架のうえで、命を捨て て下さいました。これは驚くべき恵みです。この恵みからもれる人は一人もいな いのです。

(by 明智信作)