パリサイ人

 お元気ですか? 明智信作です。今回から、ヨハネによる福音書8章に基づい て、自分の信仰生活、内面を照らしてみましょう。

 ヨハネ8:1ー11の事件は、イエスが教えておられた神殿の庭でおきました。 律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫の現場で捕まえられた女をひっぱってき て、人々の真ん中に立たせたのです。そして、イエスに言いました。「先生、こ の女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で 打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか。」これは、律法学者たちや パリサイ人たちがイエスを訴えるために仕組んだ巧妙なわなでした。

 モーセの律法は、姦淫には石打による死刑を命じていますが、ローマの法律は ユダヤ人が処刑することを禁じていました。イエスはモーセの律法を尊重するの か、それともローマの法律に従うのか、石打を命じても拒んでも、イエスを訴え ることができたのです。

 私たちは、この場面に直面して、この女を訴えているパリサイ人たちの姿に、 最も病んでいる罪人の姿を見ることができます。姦淫とは二人の人間が関係する ものですが、この女は一人でイエスの前に立っています。この事件がイエスを訴 えようとして考え出されたパリサイ人の巧妙なわなだったことを考えると、女の 相手をしたのはパリサイ人自身だったか、あるいは彼らが金で買収した男だった のでは、と考えられるのです。

 いずれにしても彼らは、自ら罪を犯しながら、他の罪人をやり玉にあげて、訴 えているのです。しかも、そんな自分の姿に気付いてもいないのです。このパリ サイ人の中に、自己中心の性質、うぬぼれの精神、自己を義とする精神が見られ ます。彼らも、女も、どちらも神の前に罪を犯しています。

 しかし、自分の罪を棚に上げて、女を責め、裁き、訴えているパリサイ人は、 神の前に余計に罪が深いといえないでしょうか? しかも、心の底にひそむ真の 動機が、イエスを訴えることであった、ということは、さらに大きな悲劇であり ました。

 ここに出てくるパリサイ人をもう一度、整理して見ますと、自ら罪を犯してい ながら、他の罪人をさばき、公衆の前で、あるいは、何も知らない第三者の前で、 訴えている人です。陰で、第三者に悪口、中傷、批評をしている人もこのパリサ イ人の仲間といえると思います。

 私たちは、日常生活の中で、このパリサイ人と同じことをしていることはない でしょうか。パリサイ人の冷酷さが私たち自身の中にないでしょうか。神は、私 たちを愛し、赦すために、まず自分の罪に気付かせて下さるのです。

(by 明智信作)