「お水取り」
春の先がけの行事として関西で行われるものに、奈良の御水取りというのがあ
ります。千二百年前の祭良時代から続けられているこの行事は、三月十二日から
十三日の未明にかけて奈良の東大寺の二月堂で行われる儀式でこの日、新鮮なあ
たらしい水を井戸から汲み取って、二月堂の中に運び込むのです。
昔から水は心身を清めるものとして宗教的儀式によく用いられましたし、神社
や寺の境内からわき出す水は神聖なものとして尊ばれました。聖書に関係の深い
中近東地方においても水は「神の賜物」と言われ、のどの乾いた旅人に一杯の水
をさし出すことを神聖な義務として考えました。
イエス・キリストはある時、パレスチナ地方でヤコブの井戸と呼ばれているそ
の井戸のかたわらで出会ったサマリヤの女にむかって次のように言われました。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水
を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、そ
の人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(新約聖書ヨハネによる福音書四章一四節)
この世の泉でかわきをいやそうとする者は飲んでもまたすぐにかわくだけです。
アメリカの宗教家であり、教育家であったE・G・ホワイトという人は「人間的
な手段や人間にたよるときにみな失敗する。水槽はからになり、水たまりはかわ
く。だが、あがない主は尽きない泉である。飲んでも飲んでも新しい水がいつで
もわいている」と書いています。
キリストという泉から飲む者にとってかわきはないのです。サマリヤの女が井
戸端でこの生ける水の源であるイエス・キリストからその心をうるおされたよう
に、わたしたちもキリストによって、キリストのお言葉である聖書によってうる
おされたいものです。
(by 鴨田増一)