パリサイ人との対決−律法主義
最近パリサイ人や律法主義者と呼ばれる人達に注目しながら聖書を読んでみま
した。するとずいぶん多くの場面でイエスとパリサイ人、律法学者と呼ばれる人
達との対決が描かれていることに、たいへん驚きました。
彼らの言動に注意していると、彼らは天地が落ちかかろうとも律法の原則に忠
実かというとそうでもなく、人間の顔色をうかがった言動をしていることに気が
つきました。
ある方が、律法主義を教科書的な「義」と表現されたのですが、実にその通り
ではないでしょうか。律法主義の危険性はその戒めの本質、真の精神を見失って
しまうことです。
パリサイ人や律法学者達が律法を細かく規定していったのは、彼らが律法の本
質の部分を見失ってしまったので、そうしなければ取るべき行動がわからなかっ
たからです。彼らは外面的な部分に押しては律法を守ることに非常に厳格でした。
しかしパウロは「律法は霊的なものである」(ローマ七ノ一四)と語っていま
す。彼らは霊にではなく文字に仕えていたために自由がありませんでした。
イエスとパリサイ人との対決、それは信仰による義と行いによる義との対決で
もあります。信仰によって義とされている者の心とはキリストに支配され、霊に
仕えている心です。そしてそこには真の自由があります。
忘れてならないのは律法主義的パリサイ人の教会には、取税人や遊女といった
罪人たちは、決して足を運ぶことがなかったということです。あなたの教会はい
かがでしょうか……。
(by 河南るり子)