パリサイ人との対決−イエスが立たれる所 ヨハネ一ノ一−八

 ここに律法学者やパリサイ人たちに姦淫の現場で捕まえられ、イエスと群衆の 前に引き出された一人の界の女がありました。パリサイ人の訴えは正しいもので した。彼らは姦淫の現場でその女を捕まえたのですから。ところがまったく言い 逃れのできないこの女をイエスは弁護されます。

 ここで両者の立っている所がまったく異なっていることに気づきました。パリ サイ人は正しいかどうかという視点からのみ人間を見ていたので、パリサイ人的 視点に立てば罪人は常に訴え続けられ、死を宜告されなければなりません。

 これはサタンが私たちを訴えているその精神と同じであります。それに対して イエスはこの女と同じ所に立っておられます。それは罪人の弁護人として立たれ る仲保者イエスを連想させます。

 彼は律法の擁護者でありましたが、それと同時にキリストを必要とする罪人の 擁護者でもあったのです。イエスはこの女にゆるしを宣言し、その後イエスご自 身がこの女の十字架を負うためにカルバリーの丘へ向かわれました。こうして救 いの道は開かれました。

 イエスの中には人間に対する絶対的な変わることのない大原則がありました。 それは人が正しかろうと今、過ちの中にあろうともイエスが存在するのは人間を 救うためにあったということです。

 イエスの選びはパリサイ人と異なり、単に正しい行動をするというだけでなく、 そこに愛のある行動をする、それがイエスの選びであったのです。そしてこれこ そが律法を全うする選びなのです。
(by 河南るり子)