ありのまま
キリスト教では良くありのままで救われるとか、ありのままで愛される、といっ
た表現が用いられます。それは、どんな人も、キリストを信じるなら、そのまま
でゆるされ、救われるという意味で使われているのだと思います。
しかし、それは、変化がないこと、良い行いが伴わないことではありません。
ありのままの自分が豊かに実を実らせてゆくことを忍耐を持って信じ続けること
でもあるのです。
ありのままということについて、タツノかずおさんが『文章の書き方』という
本の中で次のような記事を載せています。辰野さんは、埼玉県のある開拓農家を
三つ子の取材に訪れます。
父親はなくなり、母親がひとりで育てていました。ボロを着た三つ子は大きな
ワラの籠に入れられ、垂れ流しなのか、破れたむしろの部屋はすごいにおいでし
た。
辰野さんが「お子さんの写真を撮らせてください」と頼むと、母親はちょっと
ためらい、待ってくださいといって、押入れを開け、晴れ着を着せようとしたの
です。辰野さんは「いや、そのままで」と言いかけて、やめました。しかし、本
当はボロのままの姿を撮り、悲惨な現実を読者に訴えたかったそうです。
それでも、後に、あのとき、母親に無理に頼んでボロのままの赤ちゃんたちの
姿を撮らなくて良かったと、そう思われたそうです。
辰野さんは語ります。
「ありのままとは何か。垂れ流しの部屋も現実ですが、新聞に載るときはせめて
見苦しくない服を着せてやりたいという母心も現実でしょう。自分がもっと無心
で取材をしていたら、子供に晴れ着を着せようとした母親の心がもっとよく見え
たことでしょう。」と
私たちが神様にありのままで愛されているということは、こんな私たちにも晴
れ着をきせてあげたい、良き業をさせてあげたい、という神様の親心を身に受け
て生きると言うことなのではないでしょうか。
(by 藤田 昌孝)