失われた者
先日の安息日学校の教課の学びに以下の質問がありました。
「主ご自身が戻ってこられることにはどのような重要性があるでしょうか。」
あなたは、この質問にどのように答えますか。
私は、最初、この質問を読んだとき、小さな子供に分かり切ったことを聞かれ
て、答に窮する状態に似た状況になりました。答えられないのです。一言も言葉
が出ないのです。
そして、次の瞬間、不謹慎ですが「なんて馬鹿な質問をするんだろう」と思っ
てしまいました。
私達が、小さい頃、親と生き別れになって孤児だったとします。そして何年も
経ってその人が、外国に住んでいることが分かり、3日後に横浜港に着く船で日
本に帰ってくると言うことが分かったとき、どうするでしょうか。
その様なときに、その人が日本に帰ってくると言うことにどのような重要性が
あるのかなどと考えるでしょうか。
ただもう、全て今やっていることを止めて、横浜の港に行こうとするのではな
いでしょうか。そこで「会うことが私にとってどのような意味があるのか」など
と自問するのは、会いたいという自然の気持ちの高揚が無く、理屈で、自分の気
持ちを高めようとするように思われます。
逆に、気持ちが高まっているときに、この様な人間の理屈的な質問をされると
その気持ちが萎えるような気がします。
理屈と感情を比較したときに、前者のほうがより高度に見られる傾向がありま
すが、果たしてそうでしょうか。なるほど理屈は、自分以外の人間に自分の意志
を伝え説得するには、大変効果的な手法です。
しかし、この人間の理屈を我々に適用すると、我々は、絶対に救われない存在
だと思います。我々から見ると神の行いは、非論理的で、理屈に合わない、感情
的なものです。
先の質問は、神様の感情的な行いに対して、人間的な理屈という物差しで測ろ
うとしているように思えます。
敢えてこの質問に答えるとすると以下の通りです。
「私は、自分が失われたものでしたが、本当の親が誰であるか知りました。私は、
その方に会いたいのです。」
皆さんは、どのように答えますか。
(by 和夫)