律法主義

 新約聖書には、パイサイ人、律法学者と呼ばれる当時の宗教指導者たち出てき ます。彼らは、旧約聖書にある規定や律法に加え、自分達の作った多くの規則を 守ることによって救いに入ろうとします。

 しかし、イエス様は彼らのそのような信仰を肯定されず、次のようにお語りに なります。

「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天 国に、はいることはできない。」

 では、律法学者やパリサイ人の義とイエス様が与えてくださる義とは何が違う のでしょうか。今日は二つ紹介致しましょう。

  一つ、律法学者たちの義は、自分の行いによって救いに入ろうとしますから、 その信仰は自己中心になります。人に親切にするのも自分の救いのため、規則を 守るのも自分のため、自分の救いを妨害するものは、排除します。自分、自分、 自己中心がその特徴です。

 しかし、イエス様の与えてくださる義は、イエス様が十字架の死によって私た ちに与えて下さいましたので、私たちは自分を救うためにではなく、救われた者 として、神様に感謝し、他者を愛し、良き業に励むのです。

 関心はいつも、幸せを分かつべく他者に向けられます。また自分を救ってくだ さった神様に向けられてゆきます。

 二番目は、律法学者たちは、律法を守って救いに入ろうとしますから、律法が 嫌いになります。「この律法さえなければ、もっと楽に天国に入れるのに」と思 うからです。また、救いに入るための最低条件を探ろうとします。

 それに対してイエス様の義を受けた者は、律法を愛します。律法を、自分を救っ てくださった神様の願いとして、また人を幸せに導く原理原則として、愛するよ うになるのです。そして、神様に喜ばれる最高を探ろうとします。

 私たちに与えられている義は、このイエス様が与えて下さる神の義です。是非、 救われた者として、神様の願いを身に受けて積極的に生きてゆきたいものです。
(by 藤田 昌孝)