目線
もう大分前の話になりますが、テレビコマーシャルで今でもはっきりと記憶に
残る、大変感銘を受けたものがありました。以下がその内容です。
暗い森から5,6歳位の少女が出てきました。顔は、べそをかきながら自分の
自転車を押しながら出てきたのです。自転車から転げ落ちたのでしょうか、それ
ともお友達と喧嘩をしたのでしょうか。悲しい、泣き顔をして、重荷としての自
転車を押しながら、とぼとぼと歩いてくるのです。
そして、自分の家の塀を歩いて門の所まで来ると、そこには、その子の父親が
立っているのです。父親は、泣きじゃくって、重荷の自転車を押してきた我が子
を見つけると、その子の所にゆき、しゃがみ込んで、目の位置をその子の少し下
においたのです。
女の子は、小さいながらも目線を若干下に向けて、一言、二言父親と話をする
と、それまでの泣き顔が晴れて、にっこりした笑顔に代わりました。
このコマーシャルでは、父と子の会話の具体的な音声のやり取りは、有りませ
んでしたが、子供が、お父さんの励ましにより元気になっていくという作者の意
図は十分に伝わったように思います。
この、ほんの30秒程度のコマーシャルシーンで、私が特に感銘を受けた部分
は、父親がしゃがみ込んで、自分の目線を子供と同じ目線、いやそれより一寸下
に置いて会わせたことでした。
別のコマーシャルの撮り方として、父親が女の子を抱き上げて慰めるというシー
ンも考えられたのではないかと思います。でもそれでは、父親としての愛情を十
分に表現できないのではないかとも思うのです。
イエス様は、私達を救うのに、わざわざ人の形を取って、この地上に降りてこ
られなくても、お救いになることはお出来になったのではないかと思います。
しかし、一見無駄とも思える、人性を取って、我々の目線にまで降りてこられ
たのは、我々の苦しみを理解し、受け入れて下さるという神様の愛の表明の現れ
ではないでしょうか。
我々は、イエス様のこの行為により、癒しが与えられ、救いを確信することが
出来るのではないかと思います。
先のコマーシャルは、そう言った神様の愛を連想させるものがあると言うこと
で感銘を受けたのだと思います
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは
思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられ
た。その有様は人と異ならず、ピリピ2:6、7
(by 和夫)