私は道である
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と
共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つと
してこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の
光であった。ヨハネ1:1〜4
上記の聖句は、イエス様のことを描写している部分ですが、この記述を読んだ
とき、私達の源は、イエス様であり、イエス様無しには、何もないのだとつくづ
く実感するのです。
「クリスチャン」という言葉の意味は、キリストに従う者、キリストに倣う者
キリストを愛する者、今風に言えば、四六時中、キリストを慕う、キリストの追っ
かけという意味になります。
私達、クリスチャンは、朝起きてから夜寝るまで、朝の家庭礼拝に始まり、食
事のお祈り、車を運転する前のお祈り、仕事に取りかかる前のお祈り、一日を感
謝する夕の礼拝等でお祈りをしますが、お祈りの終わりに必ず、「イエス様の御
名を通しまして、お祈りいたします。」と言います。これはけっして、お祈りが
これで終わりですというエンディングの言葉ではありません。
私達の大先祖である、アダムとイブが罪を犯して神様から離れた時から現在ま
で、私達は、直接神様に会ったり、祈りを捧げることは出来ません。神様と接触
できる唯一の方法は、イエス様を通してだけです。その為、前述のようにイエス
様の御名を通しますと祈りの言葉に含めるのです。
「宗教は、どれも同じだ。救いという同じ山の頂上を目指して登るのに、それ
ぞれの登る道が異なるだけだ」という考え方があります。
この考え方は、私達クリスチャンから見ると同意できるものでは、有りません。
一つは、登るのに色々な道があるのではなく、イエス様という道しかないので
す。私達、神様から離れた人間は、イエス様に依ってのみ救いが与えられるので
す。
二つ目は、山というイメージからすると、その頂上と麓は、つながっており、
登っていけばいつかは頂上にたどり着くのです。人間の努力により救いが得られ
るような錯覚に陥りますが、人はけっして、自力で救いを掴み得ることは出来ま
せん。
敢えて、この救いを例えるならば、地球と月のようなものかもしれません。月
にたどり着くには、宇宙船に乗らなければ行くことが出来ません。人の救いも、
イエス様が操縦される十字架という宇宙船に乗らなければ、得られるものではな
いと思います。
イエス様により救いが与えられますが、イエス様は、私達にとって、けっして
手段ではないのです。イエス様それ自体が私達の目的なのです。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも
わたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。 ヨハネ14:6
(by 和夫)