彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そ こで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。創世記3:8

 我が隠れの岩

 未だ私が小学校に入る前のお盆のことでした。仏前に盆菓子としてお供え落雁 が供えられていました。

 私は、この供えられている落雁を欲しくなり、どうしたら親に分からずに食べ ることが出来るか思案しました。そして思案の末ある方法を思いつきました。

 それは、供えられてある落雁の後ろ半分を食べて、食べていない部分を前向き にするという方法でした。我ながらいい方法だと思い早速実行しました。

 しかし実際に半分食べて元に戻しても、正面から見る分には良いのですが、少 しでも位置をずらしてみると、明らかに半分かじった後が分かるのです。

 私は、自分がした悪いことを母親が分からないように家を出ました。そして鶏 小屋の陰に隠れました。丁度その時、母親が帰ってきましたが、暫くすると何か を探すように、また家を出ていきました。

 悪いことをしたために、大好きな母親に顔を合わせることが出来ずに逃げなく てはならないというつらい思い、私は、この時、生まれて初めて、悪いことをし た後の自分の心に平安が無くなっていく経験をしました。

 そして、夕方になっても帰ってこないわが子を心配して、母親が探しに来るま で私は、家に帰れずに鶏小屋の陰に隠れていたのでした。

 毎年、お盆になるとこの時のことを思い出し、そしてイエス様を知るようになっ てからは、アダムとイブが禁断の実を食べて神様に顔を会わせられなくなり逃げ た事実が同じ罪人として理解できるのです。

 1週間が過ぎて金曜日のサンセットを迎え、1週間を振り返ったとき、とても じゃないですが、私は、クリスチャンとして日々恥じるところのない生活をして きましたと、胸を張って神様に報告することは出来ません。

 そう言う意味では、今でも神の顔を避けて自分の身を隠さなければならない存 在だと思います。

 しかし、隠れるべき場所は、けっして、鶏小屋の陰や、園の木の間や、ほら穴 や山の岩かげではありません。我が隠れの岩、それはイエス様のみ衣の中です。

地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や 山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、わ れわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってく れ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができ ようか」。黙示録6:15〜17
(by 和夫)