先生
札幌で小学校の教員をしていましたころ、教師のためのスキースクールがあり
ました。講師は、学校の先生、生徒も学校の先生です。あるとき、誰かが、先生、
呼びかけたところ、一同がいっせいに、そちらをクルット振り向いたのです。
夜の繁華街でも、先生と呼ばれる人がいます。それは、決して小学校や、高校、
中学の教師ではありません。政治家、弁護士、お医者様たちがそのように呼ばれ
るそうです。
新約聖書のローマ人への手紙2章を読んでゆきますと、いかにも先生と呼ばれ
るユダヤ人が登場してまいります。彼らは自ら自分たちのことを「愚かな者の導
き手」「幼な子の教師」と呼んでいたらしいのです。
しかし、聖書は、彼らにも問題があると語ります。
先生と呼ばれる者の危険性。少なくとも2つあげられます。
1つ、それは、本当の先生は、神様であるはずなのに、いつのまにか自らを神
様としてしまう危険性です。自分たちの都合に合せて、神様の御言葉を曲げて解
釈してしまう恐れがあるのです。
もう1つは、知識や学問にとらわれすぎて、全ての本質であられます神様を見
失う危険性です。ユダヤ人たちの精通していた律法は全てイエス・キリストを表
すものであったのに、彼らはその本質を見失います。
このように考えてゆきますと、たとえ、私たちが「先生」と呼ばれなくても、
私たちの内側にも同じような危険性が潜んでいるかもしれません。
もし私たちの生活に、今、命や、喜びが欠乏していると感じているとすれば、
もう一度、私たちの生活にイエス様をお招きしてみてはいかがでしょうか。そし
て、私たちの心の王座にイエス様をお迎えしてみてはいかがでしょうか。
聖書の言葉
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。旧
約聖書 箴言3章6節です。
(by 藤田 昌孝)