仕事
ある本に、「仕事」ということについて、次のようなことが書かれていました。
「日本語の「仕事」という漢字はその意味を良く表している。仕事は、自己に
仕えるのではなく、自己実現に仕えるのでもない。ましてや、自己の欲望に仕え
るのではない。我を忘れて、その都度の「事」に「仕」えることである。自己を
捨て、我を忘れて事に仕えれば仕えるほど、事それ自体が真に実現され、しかも
そこに同時にその人の本当の自己が実現されるのである。」
おおよそ、以上のような内容だった思います。
なるほど、我を忘れて、仕事に没頭して行くとき、その「事」は美しく実現さ
れ、またその仕事や仕事ぶりの中に「その人らしさ」がもっとも良く表されるよ
うな気が致します。
さて、私たちの持っていますキリスト教信仰も似たような所があるのではない
でしょうか。私たちは、信仰、信仰と口に出しながら、ややもすると、それが自
己実現の手段となってしまうことがあります。また、信仰から生まれてくる業や
事柄、それをなしている人に目が行ってしまうこともあります。
しかし、キリスト教信仰とは、本来イエス・キリストに集中してゆくものです。
我を忘れてキリストご自身に熱中してゆくこと、イエス様の成された業や、イエ
ス様の成される業に期待し、そのために没頭して行くことだと思います。そして、
そのときこそ、私たちの日常生活の中で天国が美しく実現され、しかも、その人
らしい信仰のあり方が表されてくるのではないかと思います。
聖書の言葉
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生き
ておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたし
を愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、
生きているのである。」これは、ガラテヤ2:20の言葉です。
このパウロの信仰はまさに我を忘れてキリストに没頭してゆく、そのようなも
のだったのだと思います。
(by 藤田 昌孝)