自由の用い方

 私たちはみな、イエス・キリストの十字架によって罪が許され、永遠の命が用 意されています。神様の願いは、その永遠の命を私たちが無償で受け取り、終わ りに日によみがえることなのです。

 では、永遠の命を受け取った私たちは、この世にあっていかに生きるべきでしょ うか。救われた者としてのその自由をどのように用いるべきなのでしょうか。

コリント第一の手紙6章の12節の言葉。
すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけ ではない。

 ウイリアム・バークレイの著書の中に、オスカー・ワイルドという方の短編作 品が紹介されていました。それは次のようなものです。

  「キリストは白い原から紫の野に来た。最初の町を通ると頭上で人声を聞いた。 見上げると、一人の若者が酔って窓の台に寝ていた。『何故酔いつぶれ、あなた の魂を損なうのですか』とたずねると、若者は答えた。『主よ、私はらい病人で したがあなたに癒されました。こうしているよりほかに、私に何ができるでしょ うか』。

 しばらく町を進むと、娼婦を追う男に出合った。『あなたは何故淫行に魂を痛 めているのですか』と尋ねた。すると若い男は答えた。『主よ、私は盲人でした が、あなたが癒されました。こうしているよりほか、私に何が出来るでしょう か』。

 最後に町の中心部で、老人が土の上にかがんで泣いているのを見た。何故泣く のかとたずねると、老人は答えた。『主よ、私は死んでいたのですが、あなたが 私をよみがえらせました。泣くよりほかに何が出来るでしょうか』」。

これは、人々がイエス様からいただいた自由をどのように用いるかを表わしたし た例話です。

 私たちは救われた者として、その自由を酔いつぶれるために用いる必要はあり ません。娼婦を追う必要も、悲しみの中に留まる必要もないのです。

 主のためにその自由を用いることができたら幸いです。

聖書の言葉。自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
コリント第二6の20
(by 藤田 昌孝)