呼び出し
最近、デパートなので少し気になるアナウンスを耳にするようになりました。
「先ほど、○○をお求めになりました、○○さん、お知らせしたいことがござい
ますので、至急○○売り場までお越しくださいませ。」
最近はクレジットカードで買い物をされる方が増えおられますので、お名前が
分かります。呼ばれたご本人は、ドキッとするのではないかと思います。何を知
らせされるのかなーと 呼ばれてない、私まで、要らない心配をしてしまったり
します。
日本人はとかく、群集にまぎれることを好むといわれています。自分の存在を
明らかにすることを好みません。「太いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」
「みんなで渡れば怖くない」
しかしデパートで名前が呼ばれますと、ドキドキしながら、恥ずかしそうに、
しかし、そそくさと売り場に出かけて行かれると思います。なぜなら、そこでは、
他のだれでもない、自分自身の名が呼ばれ、まぎれもなく、自分自身に用事のあ
る方がそこで待っておられるからです。
キリスト教信仰は、まさにそのようなものではないでしょうか。他の誰でもな
い、私自身に御用のある方がそこにいらっしゃる。私たち一人一人の名前が呼ば
れ、私たちがそのお方の御前に静かにたたずむところから始まるのかもしれませ
ん。
聖書を開き、私たちがそのお方の前にたたずむとき、そのお方が私たちの創り
主、真の親であることが分かります。そのお方が親として子どもの幸福を願って
やまないお方であるということを知ることができます。そして、そのお方が私た
ちの名前を決してお忘れになられないということを知るのです。
聖書の言葉
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないで
あろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決し
てない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。
旧約聖書イザヤ49章15、16節の言葉です。
(by 藤田 昌孝)