健康な心

 ある修行者が山にこもり、何ヶ月の間荒行を行っていました。苦行を終えて、 下山するや否や、飲めや歌えの生活をし、しまいには、人に乱暴を働くというこ とがあったそうです。

 難行苦行、山ごもりの修行は、その人の心を清くするとはかぎりません。

 新約聖書の時代、ユダヤの宗教で大切にせれていたことの一つが清いものとけ がれたもの、という概念でした。異邦人やある種の動物、また死んでいるものな ど、種々の対象がけがれたものとされました。

 それらのものに触れないこと、食べないこと、それらのものから身を守ること が、清められていることと考えられたのでした。

 しかし、そのような考えに対して、イエス様は語ります。

「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚す のである」。悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、そしりは、 心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」

マタイ15章11節19節20節の言葉です。

 宗教行事が、人を清めるのではなく、心が問題だとおっしゃるのです。

 では、心が清められるなるためには、どうしたら良いのでしょうか。ヘブル人 への手紙13章12節に、次のような言葉あります。

「イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられた のである。」

 白血病の治療のひとつに、骨髄移植という方法があります。健康な骨髄を移植 することによって冒された骨髄を回復させる治療方です。

 イエス様もまた、私たちの心を清めるために、ご自身の血をお用いになりまし た。十字架の死によって、私たちの罪の刑罰を代わりに受けられ、それを信じる ものには、イエス様の健康な心の霊を、私達の心にお注ぎ下さることを約束して くださったのです。

 私たちが日々、イエス様に罪を許され、その愛を瞑想し、清きことに願いが起 こされてゆくとき、私たちの心は癒され、健康にされてゆくのではないでしょう か。その心を清い心と呼ぶことができるのかもしれません。
(by 藤田 昌孝)