棚卸
教会に来て、聖書の学びをされている方が、ある時、キリスト教の言葉で「悔
い改め」ということについて、「私は、悔いることはできるが、改めることが難
しい。悔いと改めが一つの言葉になりません」とおっしゃいました。
するともう1人の方が、
「それは相撲の決まり手と似てますね。」とおっしゃいました。分けをお聞きし
ましたところ、「押し出しや、寄り倒しも、押しているだけ、寄るだけでは決ま
り手にはなりません。押すと出す、寄ると倒すが一緒にならないと、勝てないの
です。悔い改めも同様です。悔いて改めないと。」とおっしゃいました。
うまい事を言うものだと、座布団を差し上げたくなりました。
さて、キリスト教で使われます、悔い改めとは、いったい何なのでしょうか。い
ろいろな説明の仕方があると思いますが、私は、それを、自分自身の棚卸だと思っ
ています。
人は自分を棚に上げて、他人のことをとやかく言いたくなるものです。そこで、
反対に自分を棚からおろして、自分の中にあるものを正直に見渡してみることが、
時には必要なのではないでしょうか。
私は学生の頃、楽器店でアルバイトをしていましたが、年に数回、棚卸という
ことをしました。店の棚にある在庫を数えて、商品の売れ行きを調べます。それ
を今後の仕入れに活かすのだと思います。
私たちも時に、神様に自分自身の内側を見せられ、自分の中にある醜さや根深
い自己中心の罪を知らされることがあります。
しかしその時こそ、自分の正体を正直に素直に見つめ直し、さらには、そこで
発覚した問題を神様に取り扱っていただくことを選ぶ絶好のチャンスでもありま
す。
自分の姿を見せられ、自分自身の正体を受け入れ、問題点を主にゆだねてゆく、
知らされた問題点を神様に取り扱っていただくこと、この作業を自分自身の棚卸、
悔い改めと言うことができるのではないでしょうか。
(by 藤田 昌孝)