女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし いと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も 食べた。創世記3:6

 上記の聖句は、人類が、初めて罪を犯すシーンを記述したものですが、これに ついて、エバ(女)の立場とアダム(夫)の立場を解説した、以下の文章があり ます。

「人類にとって罪と死が免れ得ない運命となったのは、エバの選択より、むしろ 神の明白な命令を十分に知っていた上でのアダムの自発的な選択の故であった。」

 これを読むと、同じ罪を犯した二人でも、両者の行為の意味は、全く異なると 言うことです。

 エバは、蛇に誘惑されたとはいえ、過失によるもので、その罪の結果を十分に 予見できるものではありませんでした。片方、アダムは、罪を犯す前に、罪を犯 したエバを見ており、その罪の恐ろしさというものは、十分に認知していたもの と思われます。彼は、その上で罪を犯した、いわば確信犯になります。

 私達の日常でも、悪いことをするつもりではなかったのに、過失によりやって しまったことと、最初から悪いと分かっててやる悪事の2種類があります。後者 は、もう一つ、前者を犯したために、それを取り繕う、隠す、誤魔化すために犯 す、故意の犯罪も含まれます。

 ある本に以下のようなことが書いてありました。

「人は、不完全な存在のために、しばしば、予期せぬ過失という失敗を犯すこと があります。これは、誰でも経験のあるものですが、このこと自体で、その人の 評価が決まってしまうというのは、希なことです。大事なのは、その後の本人の 態度及び行動です。

 誤魔化す人、それから逃げる人、人の所為にする人、色々ありますが、自分の 失敗を素直に認めて反省する人ほど他から良い評価を受けることはないでしょう。 時には感動さえ与えることがあります。」

 政治家や役人が、明らかに失敗だと分かっていることを詭弁で正当化する光景 をテレビニュースなどで見かけますが、見苦しく、滑稽な印象さえします。又、 ひき逃げして、果ては、鉄道自殺までした新聞記事がありましたが、自分の犯し た罪を受け入れることが出来なかった悲惨な例だといえます。

 この様な例を見ますと、つくづく人間は弱い存在だなと思ってしまいます。自 分の失敗を素直に認めることが出来るのも、一つの勇気であり、力だと思います。 しかしこの力は、自力で持つことが出来るものではないように思われます。

 神様の前にひざまずくとき、謙遜の思いを持たせられ、自分の罪に対して、イ エス様が間に入って下さり、正面切って向き合うことが出来るのではないでしょ うか。
(by 和夫)