「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。第1ペテロ1:24
神様の花束
聖書の学びの中で、神様の召しを、以下のように記述している文章がありまし
た。
「古代イスラエルに対する神の計画は不従順によって挫折しましたが、決して完
全に失敗したわけではありませんでした。雑草の中にも、何本かの花が生えてい
ました。旧約の多くの預言者がこの忠実な残りの民について語っています。神は
この残りの民を美しい花束にしてご自身に集められるのでした。」
すなはち、この人間の世界という広い草原より、1本1本摘まれて、ラップさ
れ花束にされているのは、私達クリスチャンに他ならないのです。神様は、この
花束を、その右の手で高く掲げられているのです。
しかしながら、勘違いしていけないことは、神様に選ばれたからといって、決
して他の人たちに対して優越感を持つべきではないのです。信仰の長男であるイ
スラエルは、この点で失敗しました。彼らは神様から選ばれたという選民思想を
自分たちを他の民族よりも優位なものと誤解したのです。
神様が私達を選ばれたのは、他の人々に私達が福音を伝えるためです。人々を
支配するのではなく、逆に人々の幸福のために仕えるためです。
神様が右の手で私達を高く掲げられるのは、私達が高いところから人々に対し
て自慢するのではなく、人々によく見えるように掲げられているのです。
神様は世の人々が一人も漏れることなく救いの恵みに預かることを望んであお
られます。
「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あ
なたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第2ペテロ3:9後句
この様に、神様の深い意図を瞑想するとき、ただ単に自分が救われたという喜
びだけに浸るだけではなく、そこには、また神様の我々に対する期待もあるので
はないかと思うのであります。
(by 和夫)