神の栄光のために

 われわれに与えられているのはただ一度の生涯であるから、「それが最大の益 をなすためには自分の能力をどのように投資するか、神の栄光と人々の益のため にどうすればもっとも多く尽すことがでさるか」と言うことを誰でも考えなけれ ばならない。何故なら、人生はこれらの目的を果すために使われる場合に限り、 価値があるからである。

 神と人々に対するわれわれの第一の義務は自己の発育ということである。自分 の能力の及ぶ限り多く社会に役立つためには、創造主がわれわれに授けてくださっ た各能力を最高度の完全さに育成しなければならない。

 故に心身の健康の維持増進のために費やされる時間は有益である。われらは身 心の何れの機能でも弱めたり、不具にしたりする余裕はない。もしそぅするなら ば必ずその結果に苦しまなければならないのである。

   生命か死の選択

 人は皆大部分、自分を自分の選ぶ状態にする機会を持っているのであって、今 の人生の祝福も永遠の生命の祝福も人の手近にあるのである。ひと歩み毎に新た な力を獲得しながら、人は真に価値のある品性を築いて行くことができる。また、 知識や知恵において日々進歩し、進歩と共に新たな喜びを感じつつ、徳を増し、 美質を加えて行くことができるのである。

 能力を使用することによって、知恵が増せば知恵を得る能力も増大する。この ように知能も知識も徳も発育して力を増し、更に完全に調和のとれた状態になる のである。

 しかし、それとは異り、人が能力を使用しないために錆びつかせてしまったり、 あるいは悪習慣や自制心の欠乏、また道義的な力や宗教的な力の欠乏のために能 力を悪用したりすることがある。するとこのような人の進路は下り坂となるもの であって、その人は神の律法にも健康の法則にも不従順である。

 食欲は彼に勝利し、自分の性癖や気分の自由にされてしまう。常に活動的な悪 の力に抵抗して前進するよりは、これに負けて後に引きずられる方がやさしいの である。そうすると放蕩、疾病、死が相次いで生じる。これが神と人類のために 有用であり得た多くの人々の歴史である。

   完全さを求めて

 キリストの賜物によって到達することができるようにされた完全さの標準に達 するように神はわれらに望んでおられる。彼はわれわれが正しい側を選んで神や 天使達と結合し、神の御像をわれらの中に回復させる主義原則をとり入れるよう に求めておられるのである。

 聖書と偉人な書物である自然界に神は生命の原則を表示しておられるが、これ らの原則について知識を得ることと、これに服従することによって神と協力し、 心にも肉体にも健康を快復することはわれわれの仕事である。

 生命は神の所有物であって、創造によっても贖罪によっても神に属するのであ る。われわれのどんな能力でも誤用するならば、当然神にさきげるはずの栄誉を 神から奪うことになる。