服従の問題
清潔で汚れのない健全な身体を神にささげるという神に対する我々の義務が理
解されていない。
生きた機械(人間の体)を大切にしないことは創造主に対する侮辱である。も
し遵守すれば人間を疾病と早死から守る法則があるのであって、これは神によっ
て定められたものである。
われわれが神の祝福をもっと受けていない理由の一つは、生命と健康の法則に
ついて神が与えて下さった光にわれわれが心をとめないからである。
神が道徳律の作者であることが確実であるように肉体の法則の作者であること
も確かであって、その法則は人間に委託された神経、箭肉、器官の一つ一つに神
ご自身の指で書かれている。
人間の創造主はわれわれの肉体の生きた機械を整えて下さったのである。各機
能はくすしく、また聡明にできているが、もしも人間が神の法則に従って彼と強
力すれば、この人体の機械を健康的に活動させ続けてくださると神は約束してお
られるのである。
人体の機械を支配するすべての法則は起源においても性格においても、また重
要性においても全く神の聖言と同じく神聖であるものと考えなければならない。
人体の中に神が明記しておられる法則を無視することによって生じるすべての不
注意怠慢な行動、また神の奇しい機械の乱用は神の律法の違反である。
自然界にある神のみわざをわれわれはながめて感嘆するかも知れないが、しか
し人体はもっとすばらしいのである。
われわれの肉体の法則を犯すことは十戒を破るのと全く同じ罪であって、いず
れをしても神の律法違反である。また肉体の中にある神の法則を犯す人々はシナ
イ山から語られた神の律法を犯し易くする。
われらの救い主は、ノアの洪水前によぐ似た状態が彼の御再臨の直前に存在す
ると弟子達に警告なさった。飲食が過度に行われ、世は快楽に耽るようになると
仰せられたが、実際にこのような状態が現在存在している。世界は一般に食欲を
ほしいままにしているので、もしも社会の風習にならう傾向がわれわれにあれば、
われわれも誤った習慣のとりこになってしまう。
すなわち、ますますわれわれを滅亡した。ソドムの住民のようにしてゆく習慣
の奴隷になるのである。私は地球上の住民がソドムとゴモラの人々のように滅ぼ
されないのが不思議だと思った。世界の人々の退化した現状と死亡率の十分な理
由を私は見るのである。盲目的な情欲が理性を支配し、多くの人の場合、全ての
高貴な思慮分別が肉欲の犠牲となっている。
生きた人間の機械のすべての部分が調和して活動するために身体を健康状態に
保つことをわれわれは一生涯学んで行かなけれはならない。神の子等は病弱な身
体や発育不全の頭脳をもって神に名誉を帰することはでさない。飲食のいずれか
において、どんな不節制をしても体力を消耗し、道徳力を弱めるのである。
自然の法則は神の律法であるから、これらの法則を注意深く研究することは明
らかにわれわれの義務である。ゎれわれは自分の身体に閑するその規程を学んで、
それに従わなければならない。これらの事に無知であることは罪である。
「あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを知らないのか」「あ
なたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている
聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あ
なたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもつ
て、神の栄光をあらわしなさい」(コリント第1 6:15、19、20)。
われわれの体はキリストがお買いになった彼の所有であるから、われわれが好
き勝手に取り扱う自由はないのである。しかし、人間はそのように行ない、あた
かも肉体の法則を犯しても罰せられないかのように自分の体を扱って来た。誤っ
た食欲によって身体の器官や能力は虚弱になり、病的になり、不具になってしまっ
たのであるが、サタンは彼の偽装した誘惑によって生じさせた、これらの結果を
もつて神を侮辱するのである。
キリストはご自身の所有としてお買いになった人間の体を神の御前におささげ
になるのであるが、人間は彼の創造主の代表として何と醜い姿であろう。人は自
分の身体に対して罪を犯し、その生活を汚したので神は恥をお受けになるのであ
る。
男女が実に改心すると、神によって肉体に設置された生命の法則を良心的に守
ることによって、肉体、知能おょび道徳的な虚弱さを避けるように努力する。こ
れらの法則に服従することは個人的な義務とされなければならない。法則を犯し
たことの悪い結果に苦しまなければならないのはわれわれ自身なのである。
またわれわれは自分の習慣や行動について神に対し責任を負わなければならな
いのであるから、われわれの問題は「社会が何と言うか」ではなく、「クリスチャ
ンであると自称する私が神から与えられたこの身体を如何に取り扱うか。聖霊の
お住みになる宮として自分の身体を守ることにより世的にも霊的にも最高の利を
もたらすために努力するか、または身分を社会の人々の考えや習慣の犠牲にして
しまうか」といぅことである。