無傷のささげもの

 古代ユダヤの礼拝において犠牲としてささげるものはすべて無傷であることが 要求された。聖句には、われわれの身体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供物と してささげるように言われており、それがわれわれのなすべき当然の礼拝である と教えられている。

 われわれは神の作品である。詩篇記者は、人体における神のくすしいみわさを 熟考して、「われはおどろくべく奇しく作られた」と叫んでいる。いろいろな科 学を学び、真理の理論は良く知っていても自分自身の身体を支配する法則を理解 していない人々が多い。

 神はわれわれに能力や才能をお与えになったのであって、これを最上に用いる 事は、彼の息子、息女として、われわれの義務である。悪い習慣や誤った食欲に おぼれて精神や身体の持つこれらの能力を弱めるならば、なすべき程に神をあが めることはできない。

 神は、人間が死んだ犠牲や死にかけの犠牲として体をきさげるのでなく、生き た犠牲として神にささげるように求めておられる。古代へブル人のささげものに は傷があってはならなかったのに、疾病と腐敗で満ちた人間の体のささげものを 神が喜んでお受けになるだろうか。

 神はわれわれの体が聖霊の宮であると仰せになり、彼の霊がお住みになるのに 適した住居とするために、この宮を守るように求めておられるのである。

 使徒パウロはつぎのように忠告して「あなたがたは自分白身のものではないの である。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のか らだをもつて、神の栄光をあらわしなさい」と言っている。

 すべての者が神に対し、完全なご奉仕をすることができ、また家庭においても 社会においても、義務を果たすために身体を最上の健康状態に保つよう非常な注 意を払うべきである。

  哀れなささげもの

 健康的な飲食や服装について知識を得なければならない。疾病は健簾の法則を 犯すことによって生ずるのであって、自然の法則違犯の結果である。

 神に対し、自分に対し、また他の人々に対する第一の義務は神の律法に従うこ とであるが、その中に健康の法則も含まれるのである。

 病気にかかると、他の人々に苦労をかけ、自分の家族や隣人に対するわれわれ の義務が果せなくなる。更に自然の法則を犯した結果、早死すると悲しみと苦難 を他の人々に与える。

 隣人には自分が生きていて与えるはずの助けを与えず、家族には与えることが できた慰安と扶助を失わせ、神の栄光を高めるためにわれらに要求される奉仕を 神から奪うのである。そうなると我らは最悪の意味において神の立法の違反者で はないだろうか。

 しかし神はあわれみと恵みに満ち、やさしいお方であるから、罪深い不節制に よって健康を害した人々に光が照されて、彼らが罪を悟り、悔いてゆるしを求め るとき彼にささげられる哀れなささげものを受け入れてくださるのである。

 苦しみ、かつ悔いる罪人の乱用した生涯の残りを拒絶なさらないとは何という やさしいあわれみであろう。そのなさけ深いあわれみにより、これらの魂を火か ら取り出すようにお救いになるのである。

 しかし、汚れのない聖い神にささげるのには、どう見ても何と劣った哀れなさ さげものであろう。罪に満ちた不節制な悪習慣により立派な才能は麻ひし抱負は 曲げられ、心も体も傷つけられてしまう。