不節制は悪である
敬神を公言する者は誰も、身体の健康に無とん着であって、不節制は罪でなく、
自分の霊性に影響を与えないと得意になっていてはならない。肉体と道徳的性質
との間には密接に相反応する関係が存在するのである。
われわれの最初の先祖は不節制な欲望のためにエデンを失った。全てのことで
節制するということは人々が認識する以上に、われわれのエデンへの復帰と関係
があるのでれる。
肉体の法則を犯すことは神の律法を犯すことである。われわれの創造主はイエ
ス・キリストであって、かれがわれわれの身体の造物主である。かれは人体組織
をおつくりになり、道徳津の制定者であると同時に肉体の法則の制定者であるか
ら、自分の肉体の生命や健康に関する習慣や日常の行動で不注意、また無謀な者
は神に対して罪を犯すのである。
イエス・キリストを愛すると公言する多くの人々が、かれらを永遠の死ょり救ぅ
ために生命を与えてくださつたかれに、正当な敬けんさと敬意を表していない。
かれは崇められず、尊ばれず、認められていないが、そのことは、かれらが肉体
の法則を犯して自分の体を害することによって表示されるのである。
自然の法則を犯しつづけることは神の律法を犯し続けることである。いたる処
に見受ける今日の重い苦しみと悲痛、世界にあふれている現今の不具、老衰、疾
病、精神薄弱等は、実際になり得た状態、あるいは神が計画された状態に比べて、
この世界をラザロ(ルカ16ノ19)の家にしており、現代の人間は知能力も道
徳力も体力も弱い。
この全ての不幸は堕落した人間が神の律法を破るので代々蓄積した物である。
誤った食欲に溺れることによって非常に多くの罪が行われている。
食ペること、飲むこと、眠ること、あるいは見ることを過度に行うことは罪で
ある。身心の全ての能力が調和して健康的に活動することは人を幸福にするが、
その能力が高度で精練されればされる程、幸福も純粋で完全である。
潔めが不可能な時
人類家族を苦しめているすべての病弱さの中で、その大部分は各自の悪習慣や
意図的な無知や身体の法則について神から与えられた光を無視する結果である。
生命の法則を犯して生活している間は神の栄光をあらわすことはできない。貪欲
的な食欲をほしいままにしながら心を神にささげつづけることはできないのであ
る。
有害な欲望をほしいままにしつづけるために病身になり、知的に障害をきたす
ならば、肉体と霊の潔めは不可能になってしまう。使徒はクリスチャン品性の完
成に成功するために肉体の健康状態が重要であることを理解して「自分の体を打
ちたたいて服従させるのである。
そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかもし
れない。」と言っている。かれはみたまの結ぶ実について語り、その中に節制を
挙げて「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架
につけてしまったのである。」と言っている。