むなしさに悩む若者

 ある本の中に、むなしさに悩む若者の言葉が載っていました。ある大学生の言 葉です。

「遊んでいても、授業に出ていても、そんなことしている自分を見ているもう1 人の自分がいて、「こんなことやってて何になるんだろう」という気持ちになる んです。友達と遊んでいて一番ツライのは、雰囲気を壊して悪いから、笑顔をつ くろい続けなくてはならないこと。一刻も早くこのむなしさの蟻地獄から脱け出 したい。助けてください・・・」。

 自殺未遂をしたある青年の言葉です。

「毎日のむなしさ、つまらなさは、文字通り『死ぬほどツライ』ものでした。たっ た一人の友だちとの挨拶がわりの言葉は『お前、まだ死ぬなよ』です。『この先、 人生が変わるとは思えない。むなしくてツマラナイ毎日が、ずっとくり返されて いくだけなら、生きていてもしかたないんじゃないか』。こんなことを、二人で よく話し合います」。

 むなしさの原因、そこには「意味の喪失」が挙げられます。次の文章はある本 の一節です。

「人間は、がんばることの「意味」が実感できれば耐えていける。輝かしい未来 が待っているとか、頑張らなければ生きていけないとか、そんな時代には意欲が わいてくる。しかし今の時代にはそれがない。豊かなこの時代には、それほど頑 張らなくても食べていける。無理して頑張ったって、リストラに怯える父親の顔 を見れば、輝かしい人生が待っているようには思えない。なぜ頑張らなければな らないのか、その「意味」が実感できない。しかし一方では頑張ることが強いら れる。そこに多大なストレスが蓄積されるのではなかろうか」(諸富祥彦『むなしさの心理学』)。

 今まで、多くの人は、「それは義務だから」「責任だから」という理由で頑張 ることができました。しかし現代の若者には、「義務」「責任」はあまり通用し ません。彼らを動かすには、強い「意味」や「意義」「魅力」が必要です。

 しかし、よく考えてみますと、これは当然のことなのかもしれません。もし今 まで私を含めて多くの大人たちが「義務」や「責任」の中に、「意味」を問うこ となく頑張ってきたとしたら、それを見ている若者たちは何を思うでしょう。

 それは「若者に見失わせ、そこにむなしさを覚えさせることになっているのか もしれません。私たちはあらためて、義務」や「責任」を負う事の「意味」、生 きること「意味」が問われているのかもしれません。

イエス様はおっしゃいます。
「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂 に休みが与えられるであろう。(マタイ11:29)。

 イエス様のくびきを負うて、イエス様に学ぶということは、「イエス様は私の 人生に何を求められているか」を問うていくことです。私の人生でイエス様が求 められている「なすべきこと」「満たすべき意味」は何かと問うていくことです。

 具体的にそれは、「誰が私を必要としているか」「何が私になされるのを待っ ているか」「そのために、私に何ができるか」を問うていくことなのだと思いま す。

 それはまた、今なしている、家事や仕事、勉強、交わり、奉仕の中に、イエス 様の願いを見つけることでもあります。イエス様は私たちの日常を通して、何を 期待されているのかを問うて行くとき、私たちは、その日常の中にイエス様にあ る「意味」や「意義」豊かな「価値」を意味を見出すことになるのだと思います。
(by 藤田 昌孝)