あわれみといけにえ

 今週、あるお宅の小グループで、マタイ12:1〜21について語り合いまし た。そこに、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とい う言葉がでてきました。これは、ホセア書6:6「わたしが喜ぶのは愛であって いけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(新共同訳) の引用であると思われます。

 この言葉から私たちは「奉仕」というものについて学ぶことができます。「奉 仕」は英語では「サービス」「礼拝」とも訳せます。私たちがなすべき「礼拝」 そして日毎の「奉仕」はいかにあるべきかということを上の言葉から考えさせら れます。

「生きた奉仕」と「死んだ奉仕」
 「奉仕」を上の聖句に照らして、二つに分けるとするならば、「愛の奉仕」と 「いけにえの奉仕」となるでしょう。いけにえの奉仕

 「いけにえの奉仕」とは、文字通りそれは死を招く奉仕でした。新約聖書の時 代、パリサイ人たちのなしていた多くの奉仕は、それによって、他者(異邦人) と自分たちを隔て、守ることのできない者たちを訴え、死を宣告するものでした。 パリサイ人はイエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたと言って訴えま す。

 また、「いけにえの奉仕」は「事柄」にこだわります。パリサイ人は、「安息 日にしてはならないことをしている」と訴えます。

 「いけにえの奉仕」は「争い」を生み、声を荒げます。パリサイ人は声を荒立 てて譴責し、安息日にイエスを殺す相談をするのです。

「愛の奉仕」
 イエス様は「愛の奉仕」を望まれます。「愛の奉仕」を人を生かします。人を 救うことを目的とします。イエス様は安息日にパリサイ人の反対の中で人々を癒 されます。

 また、「愛の奉仕」で大切にされるのは、「事柄」ではなく、「人」です。「人 の子は安息日の主である」とイエス様はおっしゃいました。「人の子」とは、一 般にイエス様もしくは、人を表します。第一義的には、安息日の主はイエス様、 そして安息には人の為にあるという意味でしょう。「愛の奉仕」は人々の救いの 為、そしてそれはイエス様の為になされます。イエス様と人が大切にされます。

 「愛の奉仕」は争わず、叫ばず、傷ついた葦を折らず、消えかけた灯心を消す ようなことはしません。

 そのお宅での小グループでの結論、それは、「私たちはもっと、教会の奉仕に 自信と喜びをもって良いのではないか」ということでした。日本人はとかく控え めに自分たちの奉仕について考えます。しかし、1つ1つの奉仕、礼拝、それは 人の為、イエス様の為になされているのですから、もっと喜んで、その奉仕に良 い意味での誇りを持って良いのではないでしょか。

 「私は主の為にお礼拝させていただきました」「私は主の為に献金できました」 「私は主の為、人の為に教会の御奉仕ができました」ともっと、もっと、喜びと 誇り、感謝を持ってよいのではないでしょうか。
(by 藤田 昌孝)