勝利の生活に対する関係

 飲食、衣服のすべてがわれわれの霊的な進歩に直接関係する。

 イスラエル人の周囲にいた異教徒たちが自由に食していた食物の多くがイスラ エル人には禁じられていた。しかし、それは専制的な差別をしたのではなく、禁 じられた食物は不衛生であったのである。

 また、それらが汚れたものであると言われたことは、有害な食物を食すことが 人を汚すといぅ教訓を教えた。肉体を消すものは魂を汚れさせる傾向を持ち、こ れを乱用する者を神と交るのに不適当にし、崇高、神聖な奉仕をする資格を失わ せる。

 われわれが食欲をほしいままにして健康を害したり、生活の誇りが支配的であっ たりする間は、神の霊がわれわれを助けに来て、クリスチャンの品性を完成させ てくださることはできない。

 神のご性質を受ける者は皆、社会で情慾のために生ずる汚れから逃れる。食欲 に溺れる人がクリスチャンの完全さに到達することは不可能である。

 これが真の清めである。それは単なる理論や感情や言葉の形式ではなく、日常 生活の中に侵入する活動的な主義原則である。

 これは、我々の飲食、衣服の習慣が肉体、知能、道徳の健康を維持するもので あることを要求するが、それは、我々が誤った習慣で自分の肉体を汚れたささげ ものにするのではなく、神に喜ばれる、生きた、聖なる供ぇ物とし神に捧げるこ とができるためである。

 われわれの飲食についての習慣は、われわれが世のものであるか、または主が 真理の強い刃物で世から切り離した人々の中に属するかを表わす。

 これほど多くの病人を出し、神にささげるはずの栄光を神から奪ぅものは食事 の不節制である。神の民の多くは自制しないので、神がかれらのために制定され た高い霊的標準に到達することができないし、また悔いて改心しても、かれらが 利己的な性質にまけたために得た損失は永遠を通じて証明されるであろう。

 神が与えようとして用意しておられる健康や霊的な恵みの豊かな祝福をどんな に多くの人々が受けそこなぅことであろう。何か偉大なことをしようとして特別 な勝利や特別な祝福を求め、奮闘努力するものが沢山ある。

 こういう目的のために、かれらはいつも涙を流して、もだえ苦しみながら祈ら なければならないと思っているが、これらの人々は神のお語りになったみ旨を知 るために祈りつつ聖書を探究し、条件をつけたり、わがままをしたりしないで、 心から神のみ旨を行うならば平安を見出すのである。

 どれほどもだえ苦しんでも、泣いてもがいても、それが、かれらの切望する祝 福をもたらすのではない。自己が完全に降服しなければならない。信仰によって 求めるすべての者に約束されている神の恵みを豊かに自分のものとして、目の前 にある仕事をはたさなければならない。