オクトパシーと岩
私は若い頃海が好きで、スキューバーダイビングの資格を取り、海の中を潜っ
ていました。海の中に入るときには普通、ダイビングスーツ、空気のボンベなど、
一式着込んで海に向かいます。器具の使い方はしっかりと教えられます。ひとつ
間違えば命取りになるからです。
腕には時計と、もうひとつ、オクトパシーという、方位磁石を取り付けます。
海中で方位を知るためです。方位を定めて進む場合、注意すべき点は、オクトパ
シーばかりを見ながら進んではいけないということです。
方位を定めたら、まず、その方向にある岩など、動かない目印になるものを定
め、そこを目標に進んでゆきます。方位磁石ばかりを見ていますと、北に進んで
いるつもりが、いつのまにか、体は潮に流され、北東や北西に進んでいることが
あるからです。オクトパシーと岩をもって常に自分の場所を確認しながら進まな
ければなりません。
信仰生活も似たようなところがあります。聖書の言葉は方位磁石のようなもの
です。私たちに進むべき方向を示してくれます。同時に私たちには聖霊の神様に
よって自分の位置や姿を示され、悔い改めをもって進みます。そのとき、私たち
の信仰の歩みは地に足のついたいっそう確かなものとされるのだと思います。
書籍の紹介をしている『いのちのことば』という小雑誌の巻頭言に、心に残る
お証が載っていました。ご紹介いたします。
23年前、私は突然イエス・キリストに出会った。当時私は、いわゆる地域の
顔役だった。よく飲み歩き、政治談義に明け暮れていた。当然家庭も子育てもお
ろそかになっていった。突然破局がきた。夫の怒りが爆発したのだ。それは深夜
帰宅した私への一方的離婚宣言だった。
呆然として寒い暗い部屋に明け方までうずくまっていた私は、とんでもないこ
とを思い出した。イエス・キリストの十字架である。クリスチャンの友が、いく
ら私に馬鹿にされても、しつこく語り続けた十字架の話である。真っ暗闇の寒い
部屋で私は生まれてはじめての祈りを捧げた。
祈りをはじめたとたん、こんな私を許してくださるのは神様だけだ、あの十字
架の話は本当だ。そう確信した。「神様、ごめんなさい。こんな私のために…」
私はいつまでもうずくまって泣いていた。そのときだった。肩にあたたかいもの
がふれた。…それは夫の手だった。
「もういい、やりなおしてみよう。さあもうやすみなさい」。夫の声に怒りはな
かった。神様は夫を戻してくださったのだ。聖書も知らない初めての祈りを神様
は聞いてくださった。
しかし、夫はそれから23年間、ほとんど教会に来ようとはしなかった。私は
表面上は何食わぬ顔で奉仕に励んでいたが、苛立ちと葛藤はやがて夫に対して敵
意すら感じるようになっていった。そんな私に夫は、昨年暮れ、驚くべき言葉を
突きつけてきたのである。
「俺が教会に行かない本当の理由を教えてやろうか。あなたを見ていると、キリ
スト教というのは、儀式としきたりだけに見える。あなたを見ている限り教会に
は行きにくくなるだけだ」。
そう言えば、受洗した年から正月飾りもやめた。節句の飾りも七夕もやめた。
法事も墓参りも渋った。私としては当然の行為だった。しかし、そこに彼はなん
の価値も見出せなかったのである。
23年間何ということをしてきたんだろう。神様ごめんなさい。私はうなだれ
て泣き出した。そんな私を見ていた夫は言った。「たまには行ってみるかな…」
久しぶりに聞く穏やかな声だった。そのときから、夫は礼拝に出席するようになっ
たのである。再び奇跡が起きたのだ。(神津 喜代子)
ご自分のお姿を知らされながら、正直に信仰の道を歩まれたお証に感動致しま
した。
(by 藤田 昌孝)