恵みによる改変の力
祈祷週の読み物『あふれるばかりの恵み』を読ませていただき、特に考えさせ
られたことは、恵みと新生の関係、恵みと聖化の関係でした。一人の女性の問い
が書かれていました。
「私は主を愛していますが、いつも主にしたがうことができないのです。心を高
めるメッセージを聞いたあとは特に、何度も主のために生きる決心をするのです
が、二、三日もしないうちに、してはいけないことをしているのです。私は正常
でしょうか。・・・」(読み物27頁)。
この問いに対して、本書は、イエス様のお答えを引用しています。
「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、
その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)。
では、キリストにつながるとは、どういうことでしょうか。聖句は続きます。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっ
ているならば、なんでも望むものを求めるがよい。」(同15:7)。
私の言葉とは何でしょうか。イエス様の言葉全てと捉えられますが、狭く解釈
するのなら、あとにありますイエス様の言葉です。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あな
たがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これ
よりも大きな愛はない。 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あな
たがたはわたしの友である」(同15:12〜14)。
イエス様につながるということは、イエス様と同じ目的をもって生きること、
つまりそれは、自分の命を他者のために用いるということ、自分の時間を使って、
相手の命を豊かにし、永遠の命を共有することのために生きるということになり
ます。
私たちの日常がそのことの為に用いられてゆくときに、私のうちに実がみのり、
清めがなされてゆくのだと思います。
クリスチャンのうちに表されてくる神様の業、清めの業とは、それをもって天
国に入るためのものではありません。はたまたそれは清くなること自体を目的と
するのでもありせん。
自分の命を他者のために用いようとするときに与えられる実です。私たちの生
きる目的がキリストのそれとつながってゆくときに与えられる豊かな実なのです。
(by 藤田 昌孝)