葦の髄から天井を見る

 先週朝の教区礼拝で、佐川先生より、

 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 言った。 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十 字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一 緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラ エルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。マ タイ福音書27:39〜42

について次の様なお話を伺うことができました。

 なんと的外れな訴えであろうか。もしイエス様が降りてこられたら、自分たち は滅びるしか道がないのに。私たちもそのように、的をはずして、神さまに向かっ て不平を言ったり、人々に向かって見当違いな言葉を発していないだろうか。

 しかしそんな見当違いな私たちを、的をはずしてしかものを考えられない私た ちのためにイエス様は十字架にかかり、自らの命をもって私たちに命を与えてく ださったのだ。

 本当にそうだと思います。私たちは往々にして、神様のご計画や思いを知らな いまま、神様に対して不平を言ったり、与えられている現状を受け入れようとし なかったりします。まさにそれは、「よしのずいから天上を見る」ようなものか もしれません。

 この言葉は1月に「かるた大会」に招かれ、そこで教えていた言葉です。「い ろはカルタ」の「よ」の札の言葉。意味としては、葦という植物の細い茎の穴か ら、空を見ても、空全体を見ることはでない。

 同様に、私たちが狭い了見や限られた理解力をもって、ものごとを見ようとす るときに、そこにある大きな事柄を理解することができない、という意味だそう です。

 私たちにとってマイナスとしか思えない事柄の中にも、ひょっとすると神様の 深く大きなご計画が潜んでいるのかもしません。

 イエス様の十字架の中に、それをひそかに感じ、自分のものとして受け止めた 人がいました。イエス様の隣で十字架に架けられていた死刑囚のうちの一人です。

 彼は自分の犯した罪によって十字架に架けられています。この世の正義から最 も遠い存在。天国とは、最も遠くにいる囚人が、そこにいました。彼はもう、そ こから降りることができません。イエス様の前にひざまずく事も、その御腕に触 れることもできません。

 あと数時間後には大罪人として死を迎えようとしているのです。永遠に滅び行 く者として、罪人としてその生涯を閉じようとしていたのです。その囚人が言い ます。

「イエス様、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出 してください」。彼はとても 「イエス様、ゆるしてください、救ってください」 とは言えませんでした。

 ただ、「イエス様がもう一度お越しくださるときに、一人の愚かな囚人がいた ということを、一瞬にでも思い出してくだされば、うれしいです」。とだけ言う のです。

 人々はイエス様の十字架に奇跡をもとめました。しかしイエス様は十字架から お降りになることをなさいませんでした。しかし、そのとき人知れず、大いなる 奇跡がそこに起きていたのです。

 そこは、イエス様の隣に立てられた十字架の上でした。そこにいる囚人は、実 は私たち自身かもしれません。罪という十字架に打たれ、動くことも降りること もできず、的外れな見方しかできないでいる私たちに、神様の偉大な救いの奇跡 が起こったのです。

 イエス様は、最後まで十字架にかかられて、命をそこに捨ててくださったので す。イエス様の隣に立てられたもう一本のあなたの十字架に語られた主のお言葉。 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
(by 藤田 昌孝)