聖霊の満たし
これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。
エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。
わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。
わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え
メリバの水のほとりであなたを試した。
わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。
あなたの中に異国の神があってはならない。
あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう(詩篇81:5〜 11)。
メリバの水とは、旧約聖書の出エジプト記にあります、次の箇所の引用です。
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅
程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「な
ぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「な
ぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇き
で殺すためなのか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わ
たしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、
ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そ
こから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの
目の前でそのとおりにした。
彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々
が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、
主を試したからである。 (出エジプト記17:1〜7)
世界で最も水に恵まれた国、日本。水道の水をそのまま飲める国、飲み水で車
を洗い、飲み水でお風呂に入り、飲み水でトイレを流す国。世界でもっとも潤い
のある国。
しかし、心の飢え乾きをもっとも抱え込んでいる国。それが日本です。その日
本の人々に今最も必要なものは、神様からいただくことのできる水です。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われ
た。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信
じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ
出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”
について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”
霊”がまだ降っていなかったからである(ヨハネ7:37〜39)。
「キリストがご自分の代表者として聖霊を送るという別れの約束は、時がたっ
ても変わりはない。御霊の恵みが豊かに地上の民に注がれないのは、神が制限し
ておられるからではない。もし約束の実現がみられないとすれば、それは約束が
理解されていないからである。
もし、だれでも求めるならば、すべてのものは霊に満たされるのである。聖霊
の必要性を重大に考えていないところには必ず、霊的なかわき、霊的な暗黒、霊
的な堕落と死がある。
これこそ、われわれが力を受ける手段なのだから、御霊の賜物を飢え渇くよう
に求めようではないか。それについて語り、そのために祈り、そのことについて
説教しようではないか」(E・Gホワイト『艱難から栄光へ』46)。
私たちの心は何かで満たされていなければ、別のものがやがて入ってきます。
真空状態ではありえないのかもしれません。
私たちの心が聖霊によって満たされているならば、そこに思い煩いや、罪や憎
しみなどが入り込んでくることができなくなります。愛は恐れをしめだしてしま
うのと同じです。
口を大きく開いて、イエス様から与えられます、聖霊の神様を豊かに受け、聖
霊によって満たされてゆきたいものです。
(by 藤田 昌孝)