信仰の話

 ずいぶん前のことになりますが、私は歯の治療のため、通院していました。そ の歯科医院は、大学病院の先生が入れ替わりで見てくれるところで、頻繁に先生 が代わります。

 あるとき、診察用の椅子に座って、順番を待っておりますと、隣で別の人が治 療を受けている様子が目に入りました。ぼんやりそれを眺めておりますと、治療 に当たっている医師はいつもの先生たちよりも、年齢がずいぶん若いことに気が 付きました。

 よく見ると、額に汗を浮かべて、必死に治療にあたっています。「あれ、今日 の先生はインターンかな?」とそんなことを思いながら見ていますと、見守る看 護士さんも心なしか、心配そうです。

 気のせいか、先生の指先から腕にかけて、ふるえているようにさえ、見えます。 「大丈夫かな・・この先生に僕も治療してもらうことになる・・」。だんだん心 配になってきました。若い医師は相変わらず額に汗して必死に格闘を続けていま す。

「だめだこりゃ、こんな先生に診てもらったら大変だぞ、どうしよう、なんとか 断れないものか、でも、それではあまりにも失礼だし、もう治療の椅子に座らさ れているし、「よだれかけ」みたいものもかけられてしまっているし、どうしよ う・・・ピンチ!」。

 その時です、「カターン」という金属音が、静まり返った治療室に響き渡りま した。なんと若先生のふるえているかのように見えるその指先から、銀色の治療 器具がとうとうすべり落ちたのです。

「ああ・・・」とあわてる若い医師。私はたまらず、「すみませーん、用事を思 い出してしまいましたー」。

 すると看護士さんは、万事心得た様子で「はい、いいですよー」と「よー」と いう口調を下から上にあげるようにして意味ありげな笑みをたたえて、私の「よ だれかけ」を取り、逃がしてくださいました。

 その後、予約を取り直して通院を続けましたが、その若先生とは出会うことは ありませんでした。

 そのとき私はすでにクリスチャンでしたが、うそをついてしまいました。私は 人を信じる力がなかったのでしょうか?信仰が薄かったのでしょうか?

 もう1つのお話です。これも少し前の話しですが、散髪にでかけたときのお話 です。いつもの床屋さんがいっぱいでしたので、そこからしばらく歩いた所にあ る床屋さんに入りました。初めて入る床屋さんです。

「そうですか、ご近所ですか・・・」と店の主人とたわいない話をしているうち にヒゲをそる段になりました。椅子が倒され、タオルを当てられ、シェービング クリームがぬられてゆきました。一連の作業がまるで催眠術かのように、私はや がてすこやかな眠りに入ってゆきました(私は床屋さんで気持ちよくなるとすぐ に寝てしまいます)。

 椅子がもとにもどされる衝撃で目をさました私に向かって、店のご主人がおっ しゃいました。「気持ちよさそうに寝てらっしゃいましたねー。しかし、よく まー、初めて入った床屋で、スヤスヤと、初めての人間に剃刀を当てられていて 眠むれますなー」と。

 なるほど、そういえば、床屋では、刃物を喉や顔に当てられながら、怖いと思っ たことは一度もありません。そんなこと一度も考えたことありませんでした。

 私は人を信じる力が強かったのでしょうか?信仰が強いのでしょうか?

 もちろん、そんなことではありません。私の信仰心や信じる力とは別に、それ は信じる対象の問題です。信じる相手がそれに値するか、否かの問題なのです。

 神様に対する信仰も同様です。私たちの信仰、私たちの信じる力うんぬんより も、さらに重要なことは、私たちが信じているお方が、信じるにふさわしいお方 である、ということです。

 信仰とは、ギリシャ語で「ピスティス」といいますが、「ピスティス」とは忠 実とか真実とも訳せる言葉です。真実といっても、人間の真実、忠実は、かなり 危なっかしいものかもしれません。そこで、まことの真実、まことの忠実といえ ば、それは神様の真実(ピスティス)のことになるでしょう。

「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、そ の不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうでは ない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」 (ローマ3:3、4)

とあるとおりです。

信仰とは実はこの神様の真実に全身でより頼むことなのではないでしょうか。
(by 藤田 昌孝)