権能とろばの子
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚
れた霊に対する権能を授け、・・・十二人は出かけて行って、悔い改めさせるた
めに宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやし
た(マルコ6:7−13)。
もし、私たちにも、このような権能が与えられたら、どんなにか素晴らしいこ
とでしょう。悪霊を追い出し、病人をいやすことができたなら・・・。喜んで、
朝から晩までそのお働きに専念して、一人でも多くの人を助けて差し上げたいと
願うと思います。
このような権能が、今の時代、私たちにも与えられたら、どんなに素晴らしい
ことでしょう。きっとワクワク、ドキドキしながら、日々、感謝のうちに主に用
いられてゆくにちがいありません。
実は私たちにもそのような権能が与えられています。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい
る。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼ら
に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべ
て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にい
る」(マタイ28:18〜20)。
私たちクリスチャンは、バプテスマを受けますと、聖霊の賜物をいただくこと
ができます。そしてその人その人にあった多様な賜物・タレントをもって、人々
の役にたつことができます。
もし、この約束を知り、主に求めるならば、主によって用いられない人は誰も
いません。みなそれぞれ独特な方法で、他者の役にたつことができます。日々、
感謝のうちに、ワクワク、ドキドキしながら、主に用いられることができるので
す。
必ずしもそれは悪霊を追い出したり、病気を癒したりすることではないかもし
れません。その代わり、家族や周囲の方々に笑顔で接することであったり、病床
の方をお見舞いしたり、道端に落ちているゴミを拾うことであったりするかもし
れません。
今与えられている働き、会社の働き、家事、勉学など、それらを主のために喜
んでする、これもきっとその人しかできない主に用いられた働きでしょう。
また、たとえ何もしなくとも、その人のご品性がキリストの香りを放ち、その
場を清めているかもしれません。この場合、その人は行動ではなく、その人の有
り様によって、主に用いられているのです。
確かに、イエス様から権能を受け、キリストの御名によって悪霊を追い出し、
イエス様のお力によって病人を癒したりすることは起こります。
しかし、たとえそのような方法でなくても、私たちは、日常の働きを通して主
に用いられ、神様の御用に立つことができます。日々の生活の中で感謝と喜びを
もってワクワクしながら、自分にピッタリの方法で、主に用いられることができ
るのです。
中には、「こんな自分が主の役になんか立つとは思えない」と感じる方もいらっ
しゃるかもしれません。その人はきっと謙遜な方で、自分の貧しさを知っている、
たいへん奥ゆかしい方、誠実な方だと思われます。
しかし、イエス様が、あの「子ろば」を用いられたことを思い出してください。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア
にさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向
こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばの
つないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、
『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐこ
こにお返しになります』と言いなさい」(マルコ11:1〜3)。
まだ誰も乗ったことがない というのは、それほど大切にされていたか、もし
くは、乗るにはまだまだ危なっかしいほど未熟な子ろばであったということです。
私たちも同様です。まだまだ危なっかしいほど、未熟なクリスチャンです。「な
ぜ、そんなことをするのか」「なぜ、自分などが用いられるのか」と自問したく
なります。また周りからも、「なぜあなたが用いられるのか」と問われることが
あるかもしれません。
しかし、エルサレムに入城し、注目されたのは「ろばの子」ではありませんで
した。そこで栄光をお受けになったのは、キリストです。私たちがご紹介するの
は、私ではありません。イエス様です。証される方がイエス様であれば、それは
素晴らしいことなのです。
(by 藤田 昌孝)