主に用いられる豊かさ
旧約聖書のエレミヤ書3章には、エレミヤという預言者が、神様と次のようなや
り取りをする箇所があります。
主はわたしにこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗っては
ならない」。わたしは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。主の言葉が再
びわたしに臨んだ。「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフ
ラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」。そこで、わたしは主が命
じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。多くの月日がたった後、主
はわたしに言われた。「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように
命じたあの帯を取り出しなさい」。わたしはユーフラテスに行き、隠しておいた
帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた(エレミヤ3:
1〜7)。
帯は本来、腰に締めるものです。しかし、その帯をあえてユーフラテスという
所の岩の裂け目に隠しておきなさい、と神様はお命じになりました。エレミヤは
腰から帯をはずして、その通りにします。
しばらくして今度は、その帯を取り出すように言われ、エレミヤは帯を探し出
します。すると、その帯はすっかり腐っていて、もはや何の役にも立たなくなっ
ていたのです。
なぜ神様はこのようなことをエレミヤに行わせたのでしょうか。説明は、次か
らの節に書かれていました。
主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい
傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心の
ままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それ
にひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰
にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家
をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すもの
にしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる(同上
13:9〜11)。
ユダヤの民が神様の思いから遠く離れて、勝手な道に歩み始めたため、その民
はすっかり役目を果たさなくなしました。それはまるで腐った帯のようだと主は
言われるのです。
人は本来、神様の腰に巻かれている者として、神様の願いを果たすべく、主に
用いられているときにこそ、主が共にいて光輝くのだ、と神様はおっしゃりたかっ
たのだと思います。
新約聖書ローマ8:9にも、次のような言葉があります。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支
配下にいます。
神様のお与えくださる聖霊の神様は、今も降り注いでいます。私たちがそのお
方を拒まずに、信仰をもって受けとめるならば、私たちの内にはすでに神様の霊
がお宿りになります。そうするならば、私たちの望みはしだいに神様のお心を全
うすることへと変えられてゆきます。
神様に用いられる人、その人は、神様の霊をその内に宿す人です。それは、主
と共に歩んだノアのように、主が共に働かれたヨセフのように、主が共におられ
たモーセのように、「私には金銀はないが、私の持っているものをあげよう」と
言ったペテロのように、です。
毎朝、私たちが聖霊の神様を、そのまま心の内にお迎えするならば、感じよう
が感じまいが、信仰をもってこのお方を受けとめてゆくならば、私たちの人生に
は確かな目的、存在意義が与えられてゆきます。
私たちの生き方が主と共に主に用いられるものとなってゆきます。私たちの家
庭が、そこに主がおられ、主に用いられる家庭となってゆきます。私たちのそれ
ぞれの仕事が、主と共になされ、主に用いられる働きとなってゆきます。
そのようにして、私たちの教会には主が共におられ、主の御用に用いられる教
会となってゆくのです。
(by 藤田 昌孝)