輝いている人

あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べな さい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし 火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている(ルカ11:3 4〜36)。

 ここで言われている「輝いている」、「暗い」は、単なる性格や気質の違いで はなさそうです。ここで言われています「輝いている」とは、周りの人々に希望 を与え、元気を与え、命を与えることができることだと思います。

 そのことによって、自分自身も人生に喜びと生きがいを見出すことのできるこ とだと思います。

 では、そのような「輝き」を身に帯びるためにはどうしたらよいか?その秘訣 が上の聖句にはこめられています。大切なのは「目」、「目が澄んでいる」とい うことです。

「目が澄んでいる」ということは、「与えられている光をしっかりと受けとめる」 ということです。

 上記の聖句の直前には、イエス様の次のようなお言葉が書かれています。 「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかに は、しるしは与えられない。

「ヨナのしるし」とは、旧約聖書に登場するヨナという人物が、ニネベという町 にあてた悔い改めの神のメッセージのことを言います。

 ヨナが神様から与えられた悔い改めのメッセージをニネベの人々に語ったとこ ろ、人々はすぐにそのメッセージを受け入れ、与えられた光を自分たちのものと しました。そして救われたのです。

 ニネベの人々はそのメッセージが自分たちの耳には痛い言葉であっても、それ が自分たちにとって益であり、本当の意味で自分たちを生かすものであることを 知ると、すぐさまその光を受け入れ、そして救われました。その意味でニネベの 人々は「目が澄んでい」たのです。

 しかし、イエス様の時代には、そうでない人が大勢いました。イエス様という 「十分な光」が既に与えられているにもかかわらず、別のしるしを求めます。イ エス様が「救い主」であるという十分なしるしが表されているにもかかわらず、 それ以外のしるしを求めようとしました。

「もっと別のしるしを示してくれなければ、私たちはその光を受け入れません !」。

かたくなな心は、与えられた光を拒むがために、別のしるしをもとめるのです。 別のしるしを言い訳にして「与えられた光」を拒んでいたのです。彼らは「目が 濁って」いたので、全体が暗くなってしまったのです。

 問題は「与えられている光にどれだけ忠実になれるか?」ということです。英 語で「応答」という言葉を「response」と言います。そしてこの言葉か ら「responsibility」「責任」という言葉が生まれました。

 私たちには「聖書のみ言葉」という「光」が既に与えられています。その「与 えられた光をしっかりと受けとめてゆく」「与えられた光に対して忠実に応答(r esponse)してゆく」。これが今私たちに問われている責任(respo nsibility)なのだと思います。

 聖書のみ言葉に目が澄んでゆけば、私たちの人生は輝きだすのです。E・G・ ホワイトは『ミニストリー・オブ・ヒーリング』462〜463頁で、次のよう に語っています。

「聖書全体はキリストの中に現れた神の栄光の黙示であり、これを受けて信じ、 これに服従する時、品性を変化させる大きな助けとなる。肉体、知能、霊的な力 を強め、人間の生涯を正しい方向に向ける崇高な励ましであり、抑制する力であ る。

・・・・世俗的な人は、神のみ言葉を考えることに喜びを見いださないが、聖霊 によって新しくなった人の心には、聖書を通して天来の美と光が輝く。世俗的な 人の心には荒れはてた荒野のようなものも、霊的な人の心には生ける川の流れる 土地となる」
(by 藤田 昌孝)