真のエリート

 今、書店でベストセラーとなっています『国家の品格』(藤原正彦.新潮新書) をご存知でしょうか。本書の中で著者は、今の日本には「真のエリート」が必要 である、と説きます。

 民主主義の暴走を抑制するためには、この「真のエリート」が、絶対必要であ るとします。そして、この「真のエリート」については二つの条件をあげておら れます。

 第一には、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった教養を身につけ、こうした 教養を背景にした大局観や総合判断力を持っていること。

 第二の条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概が あること。

 この二つの条件を満たす「真のエリート」こそが、今の日本に、世界に未来を もたらすだろうが、残念なことに、この「真のエリート」が今の日本にはいない、 ということです。

 かつて神様からお言葉をいただいて、諸国・人類の救いのために選ばれた民と して、イスラエル民族の歴史が旧約聖書には出てきます。彼らは「残りの民」と も言われて、アダムから始まり、ノアへ、そしてアブラハム、イサク、ヤコブ(イ スラエル)と引き継がれてゆきます。

 そしてその直系から救い主イエス・キリストがお生まれになりました。このイ エス・キリストこそ、十字架に架かり、全世界の救いを完成させ、まさに諸国民 の祝福の基となったお方です。

 そのような意味で、イスラエル民族は、神様から選ばれた民、諸国の救いのた めに選ばれた「真のエリート」と言えるかもしれません。彼ら「世の光」「地の 塩」として、諸国民を清め、真の神へと導く役割があったと思われます。

 しかし彼らにしても、常にその働きを全うしていたかといえば、そうではあり ませんでした。神の言葉を預かる預言者を自ら殺害し、果ては救い主イエス・キ リストまで十字架に架けてしまいます。

 一部の者を残して多くのイスラエルの民は堕落を繰り返してゆきました。「真 のエリート」とそのエリートが堕落が旧約聖書は赤裸々に描いています。

「真のエリート」と「堕落したエリート」の大きな差、それは「自分の中に光を 持つか否か」です。光とは、神様の言葉、そしてイエス・キリストのことです。

 光を持つ者は、内に聖書の言葉、イエス様を持って、光を放ちます。周囲に祝 福を与えながら、定まった歩みをします。

しかし、光を持たない者は、他の光に集まります。宝石の光、名誉の光、快楽の 光に引き寄せられ、右往左往するのです。

 イエス様を信じて、聖霊を日々受けてゆく者は、自分の中に光を持つ者です。 場合によっては、たくさんの教養を身につけいるわけではないかもしれません。

 しかし、その人の内には聖書の御言葉が蓄えられ、イエス様が共に働いてくだ さいます。目先の事柄に一喜一憂することなく、御言葉に立った大局的な生き方 をするのです。内なる光、イエス様のご栄光を放ちながら、世の光、地の塩の役 割を果たすのです。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの 立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである(マタイ5:16)。

世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底 から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示し て変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいこと のために立つ人、―そういう人である(E・G・ホワイト『教育』54頁)。
(by 藤田 昌孝)