のりづけされた家族
「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だ
とは信じないで恐れた」(使徒言行録9:26)。
キリスト者の熱心な迫害者であったサウロという人物が、イエス様と不思議な
出会いをして、キリスト者に変えられ、エルサレムの信者たちの仲間に加わろう
としました。
この「仲間に加わる」というギリシャ語は、もともと意味は、「のりづけする」
という意味です。一体となるという意味で用いられました。夫婦は一体となる、
あの言葉と同じです。サウロはエルサレムの弟子たちと一体となりたかった。1
つとなりたかったのです。
一体といってもそれぞれの個性がなくなってしまうわけではありません。糊付
けされてはいるものの、それぞれはみな違うものが、1つの目的のために、糊付
けされているというわけです。
また糊付けされてしまいますから、離れるということはありません。いやになっ
たから、飽きちゃったから、分かれる、離れるといったものではありません。切っ
ても切れない1つの関係、1つの命のつながりに入るということなのです。大変
深い関係です。
私にとっての一体は、まずは家族でしょう。いろんな個性をもった人間が1つ
屋根の下で一体となっている。糊付けされている。いろいろな家族があります。
いろんな人が糊付けされて1つとなります。私はよく「男はつらいよ」という映
画を思い出します。
「男はつらいよ」「ふうてんの寅さん」には、いろいろな人が登場してきます。
優しい人、まじめな人、頭のいい人、悪い人、頼りになる人、ならない人、タコ
もいれば、トラもいます。
「だから馬鹿だってんだよ!お前は!」「何を!」「出てってくれ!」「おいちゃ
ん、それをいっちゃーおしまいよ」そう、それをいっちゃーおしまいなんです。
いろいろな人が登場します。
人様から見たら役に立ちそうな人、プラスに思える人もいれば、マイナスにし
か見えない人だって出てきます。そんな人たちがお互いに、助けられたり、助け
たり、迷惑かけたり、そんな中で、互いに励ましあい、支えあって、糊付けされ
ている。離れない。お話は続いてゆくのです。
私たちの家庭、家族、そして教会もそうなのかもしれません。いろいろな人が
そこにはいます。人様から見たらプラスもあれば、マイナスに見えることもある
でしょう。なんとかならないものか、と思うこともきっとあるでしょう。
しかし、そんな私たちが弥次喜多道中、ズッコケながら、少しでも神様のお役
にたちたい、と思うその道のり、互いに、助けられたり、助けたり、時には迷惑
かけたり、かけられたり、冷たくされたり、冷たくしたり、傷つけられたり、傷
ついたり、そんな中で、励ましあい、支えあい、そして祈りあってゆきます。
糊付けされてゆく。離れないでいる。いろんな人がいろんな思惑の中で神様に
用いられながら、うごめいてゆく。そこに、何かが生まれているのです。それが
教会、家族、家庭なのかもしれません。
サウロは、そのようにしてエルサレムの弟子たちと糊付けされたかった。しか
し・・・皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。とあります。
そこで、登場するのが、バルナバ訳すると、慰めの子、本名はヨセフといいま
す。しかし、その寛容さと、優しさから、慰めの子、バルナバというニックネー
ムで呼ばれていました。
「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の
途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣
教した次第を説明した」(使徒9:27)。
いつの時代でも、人は、受け入れら、愛され、励まされて、豊かにされてゆき
ます。その人の持ち味が活かされてゆくのです。主のために何かができるように
なってゆくのです。
バルナバはそのようにして、人を活かすことができる人でした。どれだけ多く
の人々がこのバルナバによって励まされ、愛され、用いられていったかわかりま
せん。
あのサウロ・のちのパウロもまさにこのバルナバのおかげで、主にあって大き
な働きができたのだと思われます。今も、このバルナバのような人が必要です。
人に対して最後まで期待し続け、その人を受け入れ活かしてゆく人が必要なのだ
と思います。
(by 藤田 昌孝)