恵み その1
イギリスで開かれたある神学者たちの会議で、他の宗教にはなくて、キリスト
教会だけにしかないものとは、いったい何か?ということが議論されていました。
多くのの宗教は形こそ違いはしますが、皆それぞれ独自の道徳観、教え、いや
し、解放、救済論を持っています。議論が行き詰まる中、その場所にC・Sルイ
ス(ナルニア国物語の原作者、作家、神学者、古典文献学者)がひょっこりと通
りかかりました。
「きみたち、何を議論しているのだね?」。
「キリスト教会の独自性についてです」。
するとルイスはサラっと答えたそうです。
「そんなことは簡単さ、『恵み』だよ」。
「恵み」とは受ける資格のないものが受けることいいます。この「恵み」につい
て、知り合いの牧師が以前、こんな説明をしてくれました。
「自分はアメリカに留学中、ホームレスの方々のためのボランティア活動に参加
していた。ある日、昼時になったのでお弁当を買いにお店に行った。途中、1人
の老婆が道路わきに座っていた。お金をもらうためらしい。
買ったお弁当を食べようとしたが、どうしても、あの老婆が気になる。気が付
くと、『このお弁当たべるかい』と、老婆の傍らに座っていた。おいしそうに食
べる彼女の姿を見ていて、これが『恵み』なのだと思った。
お金でお弁当を買うのは、『報酬』。しかし、『かわいそうだから』と、憐れ
みの中で、無償で与えられるのが、『恵み』」。
私たちは皆、「恵み」によって生かされています。私たちは皆、救われる資格
を失いました。神様とつながる資格、神様から愛される資格を失いました。
どんなに良いことをしても、献金を捧げても、自分の命を捧げたとしても、そ
れによって救いに入ることはできません。それほど、私たちの罪は根深く、大き
いのです。もはや、「報酬」によっては救われ得ないのです。
しかし、それにもかかわらず、神様は私たちを愛するが故、憐れみの中で、資
格のないものに永遠の命をくださいました。ひとり子イエス・キリストを十字架
に、その為に渡されました。私たちは皆、恵みに生かされるより他に道はなくなっ
てしまったのです。
聖書の中にはこの「恵み」が満ちています。ユダヤ人以外の人々に、キリスト
の福音を広く宣べ伝えた使徒パウロも、この「恵み」についてはたいへん敏感で
した。
使徒13:38、 39です。
「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らさ
れ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は
皆、この方によって義とされるのです」
または、ローマ3:20、24です。
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないか
らです。・・・・人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ
るのです」
私たちが生きているこの社会の法則の多くは、「報酬」の原理で動いています。
成果主義、因果応報、負け組み・勝ち組などは、この原理に動かされていると思
われます。
聖書の中にも、因果応報的な考えはあります。しかし、その原理をはるかに超
えた神の恵みが「報酬」の原理を飲み込んでしまうのです。
「報酬」の原理の中で、私たちはなんらかの傷を負ってゆきます。失敗は赦され
ず、自分自身を裁き、傷つけ、その傷を癒そうとしては、周りの人々をも傷つけ
るのです。
一方、「恵み」の原理に立つとき、私たちは、神様によって支えられ、赦され
て生きるものへと変えられます。神様に赦されていることを知るとき、神様とそ
して実に多くの存在によって生かされていることを知り始めます。感謝を覚え、
「おかげさま」の思いが養われます。
やがて、「自分を愛するように、隣人を愛する」というイエス様の教えが、そ
の扉を開いて、私たちを迎えてくれるのです。この次は、「恵み」に生きるもの
のと「自尊心」についてお話できたらと思います。
(by 藤田 昌孝)