イエス様の系図
最初から難関、イエスの系図?
新約聖書を開きますと、すぐに出てくるのは、「アブラハムの子ダビデの子、
イエス・キリストの系図。 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、
ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・」
・・・ああ・・・。
新約聖書を開いて、まず圧倒されてしまうのは、マタイ1章に出てくる数多く
の名前、舌をかむようなカタカナの羅列、イエスの系図です。これがなければ、
新約聖書ももう少し親しみやすくなるのに、と思うことすらあります。
最初に系図?の理由
しかし、新約聖書のはじめに、この系図が出てくることには、それなりの理由
があります。 イエス・キリストのご生涯を表した4つの福音書のうち、最初に
書かれたものは、マルコによる福音書だといわれています。では、なぜマタイに
よる福音書が最初に来てくるのか?それは、マタイによる福音書が旧約聖書と新
約聖書の架け橋の役割を果たしているからです。
マタイによる福音書を読んでゆきますと、いたる所で、「このように(旧約聖
書の)預言が成就した」と書かれています。マタイによる福音書は、イエス様の
ご生涯と、旧約聖書の預言とを、そのようにして結びつけているのです。
つまり、マタイによる福音書は、それまで旧約聖書が預言してきた救い主を、
イエス・キリストと結びつける目的をも持っていたのです。
しかもそれは、おもにユダヤ人に向けて書かれたものでした。もちろん、聖書
はどの時代の人にも、どこにいる人にも意味があります。しかし、マタイによる
福音書の主なる対象は、当時ユダヤ人だったのです。
ユダヤ人を対象とする場合、最初に通らなければならない関門がありました。
それが「系図」です。ユダヤ人が、イエス様を救い主として認めるためには、イ
エス様がアブラハム直系の子孫でなければなりません。ここを押さえずして、次
へ進むことはできなかったのです。
系図に載っている人はどんな人?
さて、このイエス・キリストの系図ですが、その中には、いろいろな人がいま
す。立派な人もいれば、あながちそうでない人もいます。ヨセフを奴隷に売った
「ユダ」、賢明ながらも異邦人の遊女だった「ラハブ」。
「ダビデ」はその妻の元夫「ウリヤ」を死に追いやりました。高ぶり滅ぶ「ウジ
ヤ」、悪名高き「アハズ」など、救い主の系図といえども、そこには清められた
人ばかりではありません。かえって汚れや罪、愚かさを抱えた人々も名を連ねて
いるのです。
イエス様の接木
イエス様の誕生は、そのような人間の汚れや罪、愚かさの歴史に、新しい命、
新しい実を結ぶことになりました。それはちょうど「接木」に似ています。渋柿
の木に甘柿の枝を上手に接木すると、その枝は甘い実を結びます。渋柿の木につ
ながっていながらも、甘柿の枝は甘柿を実らせるのです。
それと同じで、罪の実しか結ばなかった人間の歴史に、イエス様がお生まれに
なって、新しい実が生まれました。恵みと愛の実践が生まれてきたのです。
私たちの住む世界は、確かに多くの問題を抱えています。私たち自身の心の中
にも、いろいろな問題、思うようにならない気分や罪があるかもしれません。
しかし2千年前、人々が暗闇の中を歩むその中に、イエス様がお生まれくださ
り、イエス様の霊が接木されました。このとき以来、今や絶望に終わることはあ
りません。絶望的にさえ思える私たちの歴史に、希望が宿ったのです。
暗黒の中でも、愛の業に生かされる瞬間が生まれました。主と共に歩む者はた
とえ死を迎えても、やがて永遠の命をもって復活するということが約束されまし
た。今も、主につながる者のうちに愛の実が静かに育っているのです。
(by 藤田 昌孝)