神様の葛藤
先日、クリスチャンでない私の友人から、お電話をいただきました。内容は、
「この間、テレビで『氷点』見た?あれ、どう思う?」というものでした。『氷
点』とはクリスチャン作家三浦綾子さんの著書、人間の罪を取り扱った優れた小
説です。
友人いわく、「自分はどうも、ドラマの終わり方が暗くて、しっくりこない、
こんな重たい、暗い、行き場のない話では、キリスト教が誤解されるのではない
か?」というものでした。
私はその友人に対して、「今までそれほどまでに、キリスト教を「明るい」、
いや「明るさ」を通りこして「おめでたい」「軽薄な」ものとして話してきたの
ではないだろうか?」と反省しながら、その話を聞いていました。
確かにイエス様は世を照らす光としてこの世にお越しくださいました。私たち
も、世の光としてイエス様をお証しさせていただきたいと願います。愛、喜び、
平安のうちに、明るく、元気に生かされえゆきたい、と思うのです。
しかしそれは、『氷点』つまり自分の中の罪という問題に手をつけずして、お
めでたく、浮かれながら、生きてゆこうとするものではありません。
私たちは、あの『氷点』にあったように、「私の中にも氷点があった・・・罪
がある・・・そしてその罪は、私には解決することができなかった・・・」とい
う、自分の内にある、自分ではどうすることもできない罪というものをしっかり
と見据えてゆかなければならないのです。
その問題が、たとえ、暗く、重たく、行き場のないこととして感じられたとし
ても、キリスト教の中心問題は、まさにこの人間の罪、かつその罪からの救いを
説くところにあるからです。
私の中に罪がある。しかし私は、その罪を自分自身で解決することができない。
この二つの事態の中に私たちの葛藤、私たちの現実があるといってもよいでしょ
う。それについては、使徒パウロがすでに語っているところです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。
このパウロの告白はまさに私たち自身の告白であるのかもしれません。
しかし、その人間のために、神様の側では、もっと深刻でもっと深い神様ご自
身の葛藤があることに、私たちは気づかされるのです。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前
を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのよう
にすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれ
る」。
これは、ホセア書11章8節の言葉です。そこには、神様に背く北イスラエル
に対する神様の思い、葛藤、ほとばしる熱情が描かれています。
ここで、「わたしは激しく心を動かされ」と訳されているところは、原文のヘ
ブライ語を直訳すると、「私の心は、私に反して向きを変える」となります。本
来なら、神様はこの民の背信を裁き、当然、滅ぼすところ。
しかし滅ぼすことはできない、むしろ反対に向きを変えて、ひっくり返して、
ご自分の民を愛されるというのです。大島力(ちから)という牧師は、ここを「神
に対立する神」と表現しました。
神様は正義の方です。人間のようにいい加減ではありません。不正に対してみ
て見ぬふりをしたり、なあなあで物事を片付けられたり、されるお方ではありま
せん。
ここにあるのは決して、安易な赦しの言葉ではないのです。罪深きイスラエル
がなおも愛されて、また罪の中に葛藤を続ける私たち人間がなおも救われるため
には、「神様が神様に対立して」、ご自身を引き裂かれなければならなかった。
もう少し言うならば、神様ご自身の肉を裂いて血を流されるという、厳粛な事
実を通してのみ、私たちは救われ得る。あのイエス様の十字架のお姿をほうふつ
させられるのです。
(by 藤田 昌孝)