インマヌエル

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、『神は我々と共におられる」という意味である』。(マタイ1:23)

 イエス様のニックネーム、それは「インマヌエル」です。マタイはそれを「神 は我々と共におられる」と説明しています。

 当時のユダヤ人が「インマヌエル」の意味を知らなかったとは考えられません。 にもかかわらず、あえて説明を加えているのは、読む者がそこで「インマヌエル」 の意味を十分に味わうため、だと思われます。

「インマヌエル」とは、神様が肉体をとって、私たちの間に住まわれたというこ と。神様がいつも一緒にいてくださるということ。このことが歴史上の事実となっ たということです。

 そしてそれは、イエス様が、天に上げられた後にも、変わらずに私たちとご一 緒してくださることの約束です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。

 マタイによる福音書は文字通り「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」 で閉じられています。

 さらに、「インマヌエル」とは新しい「正しさ」の到来でもあります。それま で、人々は、正しくあるためには、「何をしたか?」「何をすべきか?」が問わ れてきました。

 ユダヤ人の多くは、神様の律法、自分たちが作り出したたくさんの言い伝えを 守ることによって正しくあろうとしていました。その業いかんによって、正しい 人か否か、天国の民か否かが決定されていました。

 しかし、今や、「何をしたか?」ではなく、「どこに居るか?誰と共にいるか ?」が問われる「新しい正しさ」が始まろうとしていたのです。私たちの正しさ が、「何をしたか?」ということより以上に、「どこに居るか?誰と共にいるか ?」によって決定されるのです。

ここで、重要なポイントが2つあります。

 1つは、神様の先行です。

「神様が我々と共におられる」のであって、「我々が神様と共にいる」のではな いということです。神様の方から先に私たちの所まで近づいてくださったのです。 罪人である私たちは、私たちの方から先に神様に近づくことはできません。

 しかし、神様の方から先に私たちの所まで近づいてくださったのです。私たち のできること、それは、神様の接近を拒まないということだけです。神様の訪れ を拒まずに、喜んでお迎えするということだけです。「神様、どうぞ、私のうち にお入りください」と歓迎申し上げることだけです。

 そこから「新しい正しさ」が始まります。神様のふところの中で、神様に赦さ れて、毎朝神様から命と力をいただいて、神様と共に、神様からいただいた使命 に生かされるという「新しい正しさ」「新しい生き方」が始まるのです。

 もう1つ忘れてはならないポイント、

 それは、神様と私たちとは本来、共にいることはできないということです。

 神様がどんなに優しく憐れみ深いお方であっても、罪人の私たちが、義なる神 様と共存することはありえないのです。罪人の私たちは正義の神様のふところに 休むことはできません。

 では、どのようにして、それが可能となったのか?

 いうまでもありません。神様ご自身が私たちの身代わりに罪の刑罰をお受けに なったからです。神様であられるイエス様が私たちの代わりに十字架につかれて、 全人類が受けるべき第二の死を余すところなく、味わい経験されたからです。

 私たちがインマヌエルの新しい正義を受けることができるのは、神様がお優し い方、憐れみ深い方だから、だけではありません。そこに、神様の十字架という 私たちの想像を超えた、厳粛で重たい事実に裏づけされている神様の恵みがある ことを忘れてはなりません。
(by 藤田 昌孝)