うっかり電池くんの証明法
佐藤雅彦さんの『プチ哲学』という本の中に次のようなくだりがありました。
電池くん:「うっかりして自分が古い電池か新しい電池かわからなくなったんで
す。」
ラジオさん:「そんなのすぐに教えて上げるよ」
電池くん、ラジオさんの電池ボックスに入ります。
ラジオさん:「……………」
電池くん:「ねえ、どうして何も教えてくれないのですか?…あ!そうか!」
「前提条件が教えてくれる」
このラジオさんは、電池くんの質問に答えません。いや、答えることができな
いのです。それは、この電池くんが古い電池くんだったからです。つまり、答え
ないこと自体が電池くんの一番知りたい答えになっているのです。
私たちのいるこの世の中には、その前提条件で、すでに“ある事がわかってい
る”ことが、おうおうにしてあります。
例えば占い師のところに来る人に対して、「あなたは何らかの迷いがあります
ね」と当てるのはとても簡単なことです。なぜなら、そこに来ること自体が、そ
れを示しているからです。
私たちは時として、このように答えを待たずして正しい答えを得ることもでき
るのです。
新約聖書には、イエス様を罠にはめ、陥れようとする、ファリサイ派やサドカ
イ派の人々が出てきます。彼らは自分たちの正統性を守るためにそれをしていた
のかもしれません。
しかし、そのような姑息な手段をとっていること自体が既に神様の思いから外
れていたのです。まさに彼らのそのような行為が、前提条件として彼らの間違い
を教えてくれるのです。次の箇所でもそれがよくわかります。
「片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を
治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。そこで、イエスは言われた。・
・・・安息日に善いことをするのは許されている。』そしてその人に、『手を伸
ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」
(マタイ12:10−14)。
安息日にイエス様は、片手の萎えた人をお癒しになりました。一方ファリサイ
派の人々は、イエス様を訴えようとします。さらに安息日に人を殺す計画を練る
のです。
イエス様の正しさとファリサイ派の誤りは、その時点で、歴然としています。
どちらが神様の願いに生かされているか、どちらが「神を愛し人を愛する」とい
う律法にかなっているか、両者の行為が前提条件としてそれを教えてくれるので
す。
私たちも気をつけなければなりません。自分の正しさを主張しながら、誰かを
罵倒したり、憎んだりはしていないだろうか?それが「神を愛し人を愛する」た
めの益となっているだろうか?
その意見がたとえ正しくとも、人を貶め、裁き、「互いに愛し合う」ことを妨
げるサタンの働きを助けてはいないだろうか?
私たちの家庭や、職場、教会の中で、怒りや憎しみ、嫉妬が支配するとき、そ
れ自体が前提条件として、神様の心から外れていることを教えてくれます。私た
ちの主張がどんなに正しかろうとも・・・ご用心、ご用心。
(by 藤田 昌孝)