混じりけのない福音

 旧約聖書の時代、イスラエルの人々は安息日(週の第七日目と、祭りの日)を 聖別して、その日を守っていました。彼らはこの日、日常の仕事を休みます。私 たちの教会も週の第七日目を安息日として聖別し、教会員はその日仕事を休んで、 礼拝をします。

 旧約聖書の時代、安息日を聖別する理由には、主に二つの理由がありました。

 一つは、創造の記念の日です。神様は6日かかってこの世界をお造りになり、第 七日目を聖別され、創造の記念の日としてお定めになりました。

 もう一つは、出エジプトの記念です。神様がイスラエルの民をエジプトから解 放させ、救い出してくださったことを記念としています。

 この二つの理由には大きな共通点があります。それは、主の業を記念する、と いうことです。神様がこの世界をお造りになったという、神様の業が記念とされ ています。そして、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放してく ださり、救い出してくださったという、神様の業が記念とされています。

 創造も救いも、神様の業です。私たち人間の功績によるものではありません。 ですから、私たちは、その日仕事を休んで、主の御業だけを仰ごうとするのです。

 神様がなしてくださった御業、神様がなしてくださっている御業、神様がなし てくださる御業、過去、現在、未来となしてくださっている神様の御業に思いを はせるときが安息日です。

 私たちは普段、どうしても、自分という引力の中で生活します。自分の責任、 自分の家族、自分の仕事、自分の楽しみ、自分の功績、自分の評判、自分の好み、 自分の考え、自分の目標、自分の限界、自分の可能性、自分、自分・・・・

 そのような自分の引力から解放される日が安息日です。自分にはできないこと も、神様にはできる。自分の好みよりも、神様の好み。自分の計画よりも、神様 のご計画。自己実現よりも、神実現。自分の力による救いではなく、神様のお力 による救い。

エレン・G・ホワイトという方は、『各時代の希望』上356ページで、次のよ うに語っています。

「幾千の者が同じあやまちを犯している。多くの者は・・・光の父から与えられ る真理を拒むのである。・・・彼らは何かの方法で、ある重要な働きをすること によって救われることを強調する。そしてその働きに自我を織り込む方法がない ことを知ると、備えられた救いを拒むのである」。

 多くの人は、イエス様の十字架の救いが何か物足りないかのように感じます。 そこに自分の業を混ぜ合わせようとします。イエス様の十字架では、負いきれな い罪でもあるかのように、自分の業をそこに混ぜ合わせようとします。

 私たちはたくさんの良い業という荷物を抱えて、天国の門を通ろうとしても、 天国の門は狭いのです。混じりけのない、神様の御業以外で私たちは天国に入る ことはできません。

 私たちのたくさんの良い業、たとえばお祈り、聖書を読むこと、礼拝、安息日、 献金、什一、献身、奉仕、伝道、健康改革、それらは素晴らしいことです。どれ 一つとっても、ないがしろにしてはなりません。

 それは私たちに祝福をもたらしてくれるものばかりです。それらを大切にする ことは神様のお心であり、願いです。それらについて強調しすぎることはありま せん。しかし、それらをもって天国に入るとなると・・・・・?

 イエス様の十字架以外で、私たちは天国の門を通ることはできません。もし、 これら私たちが成してきたたくさんの良い業を担いで天国の門を入ろうとするな らば、門は狭くて荷物は邪魔になります。そんなに自分の荷物をもっては通れま せん。

 それら良き業は、いったん神様にお返ししたほうがよいかもしれません。「私 の良き業は神様がなしてくださったこと」として、自分のご立派な荷物は神様の 前におろして、それからイエス様の十字架のみで天国の門を通ったほうがよろし いかもしれません。

 私たちはイエス様の十字架の救いを混ぜ物なしに受け取らなければならないの です。
(by 藤田 昌孝)