荒野の学び
イエス様は十字架上で、「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取
られた」(ヨハネ19:30)ときから、私たちは、サタンの陣営(罪の陣営)
から解放されました。私たちは今やイエス・キリストの陣営へと招かれています。
それはちょうど、イスラエルの葦の海を渡ってエジプトの奴隷から解放された
こととよく似ています。エジプトの軍隊はファラオ王と一緒に海の中に完全に沈
められてしまいました。
イスラエルの民を追って来る者はもはやいなくなりました。彼らは完全に解放
されたのです。彼らは奴隷の世界から、神様の民という新しい世界へと移されま
した。
荒野での学び
ところが、葦の海を渡りきったその場所は荒涼とした荒野。エジプトでは、そ
れなりに親しんできた慣習や生活様式がそこにはありません。それなりに守られ
ていた衣食住の保障もそこにはありません。
新しい世界の自由は、同時に、不安と欠乏感を感じさせるものでした。民たち
は事あるごとに、不平不満をモーセに訴え、その不安をあらわにします。
いったい彼らは、荒野の中で「神様に養われること」を学ぶ必要がありました。
新しい世界の中で、神様と共に歩む術を学ぶ必要がありました。神様と共に生き
る心を、今までとは全く違う新しい世界での生き方を学ぶ必要がありました。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食
べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての
言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あ
なたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:3、4)。
ここに書かれています「苦しみ」「飢え」は、荒野での生活を意味しています。
まさに荒野は「危険」と「欠乏」の場所でした。
しかし民はその中で、今まで誰も味わったことのない神様の確かな保護を覚え
るのです。それはみな、神様のお言葉によって保障された神様のお約束でした。
ある人は、「荒野とは、私たちが『危険』と『約束』に向き合っている場所」と
言いましたが、まさにそのとおりです。
彼らはこの荒野で、「危険」と「約束」に向き合いながら、「人はパンだけで
生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学
ぶのです。
イエス様の陣営に招かれた私たちも同じです。新しい世界の中で、「人はパン
だけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」
を学びます。
パンの必要については、私たちは良く理解できます。イエス様を知る以前も、
その必要は同じだったからです。しかし、パンだけで人は生きて行きないという
ことに私たちは気づきました。
パンよりも、もっと本質的な必要に気づかされたのです。霊的な飢え渇きは、
新しい世界の到来の特徴です。そこで私たちは、神様のお言葉によって養われる
という新しい経験を迎えるのです。
小山晃佑(こやま・こうすけ)という方がその著書で、「イエス様が与えてく
ださることは、単なる『ハッピーエンド』ではない。『トラスト・エンド』(信
頼にきわまる)だと述べておられます。
私たちも人生の危機、荒野の経験をすることがあります。私たちはその中でパ
ンの必要が満たされるだけでなく、もっと根本的な、霊的な必要が満たされてゆ
きます。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学ぶのです。
それは単なる「ハッピーエンド」ではありません。「トラスト・エンド」、イ
エス様に対する信頼にきわまることなのだと思います。
(by 藤田 昌孝)