霊と肉との狭間で
新しい命、新しい心、「永遠の命」をいただいても、依然として、昔の心、罪
の心、聖書でいわれている「肉」が残されています。その「肉」が「永遠の命」
の新しい動機を妨害します。
「肉」が原因で、私たちは、「永遠の命」から生まれた新しい動機や願いを、自
由に実現できないことがあります。相変わらず、罪を犯すことがあります。だか
らといって、「永遠の命」が与えられていないわけではありません。
使徒パウロはそのことについて、次のように表現しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望
まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、
わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則
に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体
にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法
則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが
わたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神
に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
肉では罪の法則に仕えているのです」(ローマ7:19−25)。
確かに私たちの中には罪の法則が残っています。しかし善を望んでいることじ
たい、「永遠の命」が与えられている証拠です。律法を喜んでいることじたい、
「永遠の命」が与えられている証拠です。
私たちのすべきことは、「肉」が残されていることを嘆くよりも、既に与えら
れている「永遠の命」をイエス・キリストによって、養い育ててもらうことだと
思います。
そのために、日ごとの悔い改めは、大変有効です。
日々、自分の罪を探っては、そのためにイエス様が十字架につかれてその罪を負っ
てくださったことを確認するとき、「多く赦された者は、多く愛します」(ルカ
7:42、43参照)。
日ごとに、自分の罪のために十字架にかけられたイエス様を仰ぐなら、私たち
は多く赦され、多くイエス様を愛するようになります。多く赦された者はイエス
様が大好きになります。
イエス様のために生きるようになります。イエス様の願いを自分の願いにする
ようになります。しかし、だからといって、あえて罪を犯すことは愚かです。
使徒パウロは言います。
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべき
だろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、な
おも罪の中に生きることができるでしょう。・・・わたしたちは洗礼によってキ
リストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが
御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命
に生きるためなのです」(ローマ6:1、2、4)。
私たちが赦されているのは、罪に留まるためではなくて、新しい命に生きるた
めです。イエス様が私たちの罪を負って、全ての罪を贖ってくださったのは、私
たちが「肉」に生きるためではありません。新しい命に生きるためです。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされ
るためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者
は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であ
ります」(ローマ8:4、6)。
私たちが新しい命「永遠の命」を大切にして生きる理由、それはイエス様の十
字架の意味と役割を理解するとき、その理由はさらに深まります。
(by 藤田 昌孝)