どんな時も神を愛する

 以前、「エデンの園でアダムとエバが罪を犯す前、彼らは毎日、神様に対する 愛の告白として、「善悪の知識の木の実」を食べなかった」というお話を書きま した。

 アダムとエバにとって、その実を食べないことは簡単なことでした。永遠の命 をいただいていた彼らは、神様のお心に従うことが何よりの喜びだったからです。 そしてそれは彼らにとって神様への愛の告白でした。

 私たちも毎日、同様の告白をすることがゆるされています。「私は神様、造り 主なる神様を愛します。イエス様を信じます」と大胆に宣言することができるの です。

 しかし、これは驚くべきことです。サタンの力の吹き荒れるこの世界で、私た ちは力強く、自由にこの宣言することが許されているのです。なぜなら、イエス 様が十字架上で、私たちをサタンの手から解放してくださったからです。

「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地 上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ1 2:31、32)とある通りです。

 私たちは力強く、大胆に、この神様への愛の宣言を、自由にすることができま す。いつでも、どこでも、どんな時でも!

 どんな時でも・・・?私たちは問われています。「私たちははたしてどんな時 でも神様を愛することができるか?」。結論は、「できる!」です。

「神様を愛する」ことを選びさえすれば、私たちはいかなる時でも、「神様を愛 する」ことを選ぶことができます。どんな時でも!それを選ぶ力を、神様からい ただいています。永遠の命の力が、神の子として力が与えられています。聖霊の お力が私たちの内に宿っています。

「彼(イエス様)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神 の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。

 旧約聖書のヨブという人物がそうでした。聖書の最も古い書巻といわれている ヨブ記には、家族を失い、健康を失い、財産を失ったヨブが、神様を崇める、と いう出来事が書かれています。

 ヨブ記は、人は全てを失っても神様を愛することができるか、という問に対す る答えです。

 ビクトル・フランクルという理学者は、ナチスドイツの強制収容所に送られ、 両親、兄弟、妻を収容所で亡くします。ある日、彼は小さな独房に拘禁されます。 しかし彼はそこで、ナチスの兵隊たちが決して奪うことのできない自由を発見し ます。

 それは心の選び。心の自由でした。そのような最悪の状況の中で、自分は何を 選ぶのか?世を呪うのか?それともその中に意味を見出してゆくのか、という選 びでした。

 彼は後者を選びました。そして彼の選びが、彼と同じように捕らえられていた 人々に多大な影響を及ぼしてゆきました。影響を受けた人々もその中に生きる意 味を見出していったのです。

 神様は、私たちに選ぶことの力、自由を与えてくださいました。その自由を用 いて、私たちは、神様を愛することができるのです。どんな時も!!

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。 苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)。

「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してく ださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、 命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの 主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは できないのです」(ローマ8:37〜39)。
(by 藤田 昌孝)