喜びの裁き 愛の告白

 エデンの園でアダムとエバが罪を犯す前に、「裁き」はあったか?という問が あります。ある人は「罪がないのだから『裁き』はない」と言います。ある人は 「『裁き』はあった」と言います。どちらでしょうか?

 この問については、「裁き」という言葉の解釈が重要になります。

 一般に「裁き」と聞くと、私たちは恐れを覚えます。なぜなら、それは「裁き」 というものを「罪を犯した者に対する刑罰」としてとらえているからです。確か に「裁き」はそのような意味でも用いられています。この場合、「裁き」は恐ろ しい知らせ、恐怖の宣告です。

 しかし、もう1つの意味が「裁き」にはあります。それは「救いの確証」です。 正しい「裁き」によってその人の無罪が判明すること、その人の救いが決定され ることです。この場合、その「裁き」は喜びの知らせ、自由の宣言です。

 最初の問に戻りましょう。もし、「裁き」を後者の意味でとらえるなら、エデ ンの園に最初から「裁き」はあったと私は考えます。人が罪を犯す前にすでに「裁 き」はあったと思います。

「善悪の知識の木の実」がそれです。神様は人に向かって「園のすべての木から 取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。 食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16、17)とおっしゃいました。

 アダムとエバは毎日、この「善悪の知識の木の実」を食べるか食べないかを選 ぶことができました。これが彼らの「裁き」です。

 ただし彼らにとって、その実を食べないことは簡単なことでした。永遠の命を いただいていた彼らは、神様のお心に従うことが何よりの喜びだったからです。 神様を愛すること、互いに愛し合うことが彼らにとって自然なこと、それが彼ら の喜びでした。

 彼らは自ら進んで、嬉々として神様のお言いつけを守っていたのです。それは 彼らにとって神様への愛の告白でした。彼らは神様に対する愛の告白として、「善 悪の知識の木の実」を食べなかったのです。これが彼らの日ごとの「裁き」、喜 びの「裁き」です。

 さて、私たちも今も同様の告白をすることがゆるされています。

「私は神様、造り主なる神様を愛します。イエス様を信じます。イエス様が私の ために十字架におかかりになったこと、それによって私の罪が全てゆるされたこ とを信じます。永遠の命が与えられていることを感謝します」と告白することが できます。

 私たちには、神様への愛を告白する力が与えられています。イエス様が十字架 上で、サタンに勝利してくださったからです。私たちはもはや、サタンに束縛さ れることなく、自由に神様への愛を告白することができるのです。

「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者(サタン)が追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 (ヨハネ12:31、32)とあるとおりです。

 旧約の時代、モーセの次の指導者ヨシュアは、民に向かって言いました。

「あなたがたは、神様を愛するのか、それとも、他の神々を愛するか、どちらか を今日、自分で選びなさい」(ヨシュア24:14、15参照)。

 私たちも、その通りです。今日、選びます。「私は今日も神様を愛します。他 の神々ではない、世界の造り主なる神様を愛します。私はイエス様を今日も信じ ます。イエス様が私のために十字架におかかりになったこと、それによって私の 罪が全てゆるされたことを信じます」。

 毎日神様への愛の告白を大胆にすることができます。これが私たちの日々の裁 き、喜びの裁きです。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたし の手から奪うことはできない」(ヨハネ10:28)。
(by 藤田 昌孝)