「パン」から離れて

 8/13午前3時頃私は、家内と家内の両親そして2人の子供たちと一緒に、 愛知県春日井市近郊の山中、人気のない暗闇で、敷物を引いて6人そろって仰向 けに寝ていました。全員で星空を見上げていたのです。

 ペルセウス座流星群の流れ星を見るためでした。1時間以内でしたが、8つほ どのきれいの流れ星を見ることができました。中には長く尾を引いた大きく、そ して美しい流星を見ることができました。

 午前2時ごろから起きだして、車で山の途中まで行き、後は懐中電灯と敷物と 眠気覚ましのチョコレートを持って山の中に入って行きます。どこかワクワクし てきます。お金がかからず、しかも貴重な体験をすることができました。次女は 「今度はみんなで日の出を見よう」などと言っていました。

 そんな経験の中で、私はふと平成18年に文部科学省が発表した、『「青少年 の自然体験活動等に関する実態調査」報告書平成17年度調査』(独立行政法人 国立青少年教育振興機構国立オリンピック記念青少年総合センター)を思い出し ました。

 そこには、「自然体験(『太陽が沈むところや昇るところを見た』や『夜空いっ ぱいに輝く星をゆっくり見た』など)の多い小中学生には道徳感・正義感の身に 付いている者が多く,自然に触れることで学習意欲を喚起される者が多い」とい う知見が書かれていました。

 私たちは別段そのようなことを狙って星を見に行ったわけではありませんでし た。しかし夜空いっぱいに輝く星や、流星を目の当たりにするとき、私たちの意 識は、日常生活のレベルから少しだけ高められ、この宇宙をおつくりになった神 様の巧みとその御業の美しさに心を動かされていたのは事実です。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイ4:4)という言葉が聖書にあります。

 ここで言われている「パン」というのは、衣食住など、日常生活の必要を表し ているのだと思います。それに対して「神の言葉」とは、「私たちはいったいど こから来て、どこに行くのか」「どのように救われ、どう生きるべきか」といっ た人として本質的な必要を表しているのだと思います。

 私たちはややもすると、日常の必要ばかりに目を奪われ、それらに翻弄されて しまいがちです。「パン」ばかりに気をとられ、「神の言葉」を忘れてしまうの です。たしかに衣食住は大切な事柄です。ところがそればかりを求めてゆくとき、 多くの思い煩いを抱え込むことがあります。

 私たちの人生が、「パン」のための人生となり、「神の言葉」を忘れてゆけば、 衣食住は私たちを翻弄させ、「パン」自身が私たちを苦しめ始めることさえある のです。

 一方、私たちが「神の言葉」を「パン」同様、いやそれ以上に大切にしてゆく ならば、私たちの人生は、「パン」のための人生ではなく、「神の言葉」を実現 するため、そのための人生へと変えられてゆきます。そこには真の安らぎ、確か な活力が生まれます。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを 得られる」(マタイ11:29)。

 どうやら、人は「パン」の必要から少しだけ離れる時を持つ必要があるのかも しれません。神様のつくられた自然に触れる体験は、まさにその1つだと思いま す。

 そしてさらには、「神様の言葉」を聖書からいただく聖別された時間こそは私 たちにとってなくてはならない大切な必須事項なのだと思います。
(by 藤田 昌孝)