風流と我流

 日本語で、「風流」と言う言葉があります。おちついた優雅な趣のあること。 みやびやかなこと(上品で優雅なさま)。世俗を離れた趣のあるもの。先人が残 した美風。このような意味だそうです。

 「風流」な生き方は、どこか型にはまっていて、一見不自由な印象を与えるか もしれません。しかしそれは先人の英知と経験から生み出されたものだけあって、 いたって合理的、無理無駄がありません。その美しいしぐさは、自分も周りの人 も、その気持ちを清めてくれます。

 これに反して、「我流」という言葉もあります。正規の流儀・作法にのっとっ ていない方法。無作法、自分のやり方、自己流、という意味です。

 「我流」の生き方は個性的ではありますが、基本が無視されていれば、やがて 行き詰ります。一見合理的に見えても、結構無理や無駄が目立つことがあります。

 さて、旧約聖書の創世記に登場するアダムとエバはもともと、いたって「風流」 な生き方をしていたと思われます。神様の趣を、神様の美風を、自由に、自然体 のうちに表していたことでしょう。神様を愛し、人を愛し、神様の律法、原則を 喜びとして、まさに「風流」を楽しんでいたと思われます。

 しかし、彼らが善悪を知る木の実を食べたところから、彼らの生き方は「我流」 となりました。神様の愛の律法という正規の流儀を離れ、その代わりに自分のや り方、自己流の生き方、罪の生き方、無作法な生き方をするのです。

 しかし、そこでイエス・キリスト様は、私たちにもう一度、「風流」な生き方 をするように、聖霊の神様をお与えくださいました。神様が与えてくださった美 しい生き方へと導いてくださったのです。次の聖句の通りです。

「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して 実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖 霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」 (テトス3:5、6)。

「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(ヘブライ8:10)。

 またE・G・ホワイトは次のように語っています。

「神の律法に従うことには大いなる利益がある。神の要求に従うときに改変の力 が働いて、人々の間に平和と善意をもたらすのである。神のみ言葉の教えがすべ ての人々の生活の支配的影響力となり、心と思いとがその抑制力のもとにおかれ るならば、今日、国家的また社会的生活の中に存在している罪悪は消滅してしま うことであろう」『国と指導者』上159)。

 み言葉と神様の律法に、自ら喜んで従う生き方はまさに「風流」な生き方です。
(by 藤田 昌孝)