主に用いられる

 私たちは、生きて働かれる神様の祝福を存分に受け止めてゆきたいと願います。 神様が私の人生を通して、豊かにお働きくださることを、さらに願い求めてゆき たいと思います。

 私は、もっと清められて、イエス様に似た者とされてゆきたいと思います。そ れは、自分が救いに入るためではありません。なぜなら、救いはイエス様の十字 架による贖いによって、すでに与えられているからです。

 私がもっと清められたいのは、イエス様に似た者とされて、一人でも多くの人 に、イエス様の救いをご紹介し、受け止めていただきたいからです。

 しかし、もし、私の中に、そのための障害があるならば、神様の祝福を妨害し ているものがあるならば、その障害を取り除いていただきたいと願います。

 エレン・G・ホワイトは、次のように語っています。

「主の約束を信じ、これをわがものと主張する人は多い。彼らはキリストについ て語り、聖霊について語るが、何の益も受けない。彼らは天来の力によってみち びかれ、支配してもらうために魂をあけわたそうとしない。

 われわれが聖霊を用いることはできない。みたまがわれわれを用いてくださる のである。みたまを通して、神は民のうちに働き、

『その願いを起させ、かつ実現に至らせ』てくださるのである(ピリピ2:13)

 しかし多くの者はこれに従おうとしない。彼らは自分で自分を支配したいので ある。これが、彼らが天の賜物を受けない理由である。

みたまは、へりくだった心で神に仕え、そのみちびきと恵みを待ち望む者にだけ 与えられる。神の力は彼らが求め、受けるのを待っている。

この約束された祝福を信仰によって求めるときに、ほかのすべての祝福は次々と 与えられる」(『各時代の希望』下158)。

 ひょとすると、私は自分のヴィジョンのために、聖霊の神様を用いようとして いたのかもしれません。みたまは自由にふかれるのに、私はみたまを自分の思い 通りに操作しようと願っていたのかもしれません。

 これが天の賜物を豊かに受けることができない理由であるならば、もう一度、 自分の魂を主に明け渡してゆきたいと思います。みたまが私を用いてくださるよ うに。
(by 藤田 昌孝)